福田ますみ氏は、一審での解散命令の決定は、欠点だらけの、時に捏造された「証拠」に基づいていたことを立証する。
Bitter Winterによる書評
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福田ますみ著『国家の生贄』の書評も、いよいよ最終局面に入る。そこでは、社会に渦巻く敵意、活動家のネットワーク、官僚の不正、歴史的記憶が交錯し、現代の民主国家がいかにして“懲罰的例外主義”へと転じていくのか、その不穏な全体像が浮かび上がる。これら終盤の章は、本書の議論の頂点と言ってよい。福田氏は、ここで描かれる出来事を現在進行形の深刻な危機の兆候として捉え、切迫した明晰さをもって筆を進める。彼女の叙述はより広範囲に、より歴史的な視座で、告発の調子を強める。恐怖がいかに社会で作り出され、行政文書に記録され、最終的には法廷で認められるのか、その実態を探求する。
第13章で取り上げるのは、1996年に起きた成城教会移転騒動である。一見すると、静かな住宅地に一つの宗教団体が引っ越してきた際に起きた、いたってローカルな問題である。しかしすぐさまこの騒動は、いかに意図的に煽られた恐怖が、一般市民が敵意を抱く群衆へと変わるのかを露わにする。統一教会の地方教会の一つが成城の地に移転した際、その反応は激烈だった。住民たちは次々と苦情を申し立て、やがて自警団さながらの集団を組織するに至る。福田氏はその光景を鮮明に描いている。住民たちは礼拝があるたびに40~50人が集結して、信者が教会に出入りするのを邪魔したり、危害を加えたり、駅周辺まで信者を付け回して罵詈雑言を浴びせた。その熱狂ぶりは、単なる近隣トラブルの域をはるかに超えていた。
福田氏は、こうした事態の背景として、全国弁連の紀藤正樹氏と知り合いの弁護士が住民の中にいたと指摘する。これらの人物が、地域にデマや最悪のシナリオを流していたとされる。地域の不安はやがて確信に変わっていった――“この教会は危険で、人を操り、搾取するとんでもない宗教だ”と。そしてひとたびこの物語が共有されると、瞬く間にそれは広がっていった。全国弁連の山口広氏、有田芳生氏、宮村峻氏といった活動家たちは、「住民説明会」まで開いている。福田氏はこれは単なる情報提供ではなく、怒りを煽動するための集会であったと指摘する。さらに、そこには拉致監禁によって脱会した元信者も証人として参加し、すでに作られたナラティブにさらに感情的な重みを加えた。
裁判では教団側に有利な和解が成立し、実質的には勝訴した。しかし福田氏は、その勝利がいかに空虚なものであったかを強調する。賃貸のオーナーは、誰かに圧力をかけられたのか単に怖くなったのか、契約の更新を拒否した。結果、教会は成城の地から撤退せざるを得なかった。この出来事が語るメッセージは不穏である。たとえ法が教会の権利を認めたとしても、社会からの圧力により教会は排除されてしまうのだ。福田氏は、この事件の加害者は信者たちではなく、恐怖を煽り住民を対立へ導いた弁護士や脱会屋であったと結論づける。福田氏は、この成城教会をめぐる事件は、現在の社会的風潮の縮小版だと指摘する。恐怖は自然に生じるのでなく、意図的に作り出されるのだと。
第14章で福田氏は、舞台を地域社会から国家の行政機構へと移し、文科省と解散命令請求の根拠とされた被害者の「陳述書」に焦点を当てる。成城教会についての章が、いかに恐怖が社会で構築されるかを示したとすれば、本章は、それがいかに行政手続の中で作られていくのかを明らかにする。福田氏が明らかにする一連の事実は、それらを合わせると“スキャンダル”と呼べるだろう。教会系の日刊紙『世界日報』のスクープでは、陳述書の中に“被害者”たちが「自分が書いたものではない」「事実と異なる」と訴える例が複数確認された。なかには、弁護士が文書を作成し、既成事実として提出されたと訴える者もいれば、話が誇張された、もしくは完全に捏造されたと語る者もいた。さらには別宗教で生じた被害が統一教会の件に混入するなど、まるで「宗教被害」はどの宗教にかまわず同一のものと扱われているかのようである。

文科省は“非訟事件”であることを理由に、関連文書の開示を拒んだ。しかし、指摘された疑惑を否定することもしなかった。福田氏は、元信者であるA氏とB氏の証人尋問を手がかりに、陳述書が作成される段階を検証する。二人は、陳述書はまず反統一教会ネットワークに属する弁護士によって通知書が作成され、その後、文科省担当者によって陳述書が修正されると説明した。段階を経るごとに内容は次第に劇的かつ悪質になり、あらかじめ決められていたナラティブになっていく。最終的に完成した陳述書には、「先祖の因縁」「地獄」「恐怖」などの表現が判を押したように多用され、個人の証言というよりも官僚的な書式といった様子が強くうかがわれる。
福田氏の主張は明確である。もし国家が、宗教団体を解散させるために証拠を捏造したり、誇張したりすることができるなら、その影響は統一教会にとどまらない。それは、法制度そのものの正当性を脅かす行為である。こうした不足な証拠に基づく解散命令は、信者の権利を侵害するだけでなく、司法に対する社会の信頼を根底から損なうと福田氏は警告する。彼女が指摘する真の危険性とは、特定の宗教団体が不当に標的にされることではなく、国家が決めさえすれば、証拠がなくてもいかなる集団でも標的にできる点にある。
第15章で福田氏は視野をさらに広げ、今回の解散請求を過去に国家が宗教に介入した歴史と重ねる。彼女は家庭連合をめぐる裁判が、日本において歴史的意味を持つ、ある「国策裁判」に似ていると指摘する。それは、戦前に起きた大本教弾圧である。一審で大本教の指導者たちは治安維持法違反で有罪とされ、教祖の出口王仁三郎氏には無期懲役が言い渡された。しかし、高野綱雄裁判長が担当した控訴審において、公式文書の偽造が明らかとなり、被告人らは無罪となる。この事件は、抑制のきかない国家権力がいかに司法を歪めるかを示すと同時に、裁判官の良心がいかにしてそれを是正するかを示す象徴的な事例となった。
福田氏は、2025年3月25日に東京地裁が下した家庭連合に対する解散命令との間に、看過できない類似性を見いだしている。彼女によれば、今回の裁判所の決定には、文科省による元信者の陳述書の捏造疑惑についてほとんど記述がなかった。そのため最も深刻な影響を受けるはずの現役信者たちの声は退けられてしまった。代わりに、裁判では数十年前に遡る出来事が、時を超越した常習的な罪の証であるかのように重要視された。家族の分裂、信者へのレッテル、信教の自由にもたらす悪影響といった人権上の影響については、十分な検討がなされなかった。

福田氏の結びは、修辞的であると同時に歴史的な訴えである。彼女は、国家が作り上げた物語に異議を唱え、手続きの公正さを取り戻そうとする、現代の高野裁判長の出現を求める。「令和の高野綱雄裁判長出でよ!」と福田氏は書く。その一文は挑戦状であると同時に嘆きでもあり、もはやそのような人物はもう存在しないのではないかという不安を滲ませる。
全体として見れば、『国家の生贄』は、個別の事件を集めた本でも、特定の宗教団体を弁護する本でもない。福田氏は、私たちの時代を支配してきた言説そのものに疑問を投げかける一冊を書き上げた。彼女は2022年以降、統一教会をめぐる公的議論に影響を与えてきた、白か黒かの構図を否定する。本書を強固なものにするのは、彼女が提示する証拠の量だけではない。告発がいかに作り上げられていくのかその仕組みを検証する、道徳的な明晰さにある。世間の噂、活動家ネットワーク、行政手続きの省略、そして司法の見落とし。こうした要素を追うことで、福田氏は、特定の集団に限られない、より深刻な傾向を明らかにしている。すなわち、現代日本において、政治的に厄介だと見なされた少数派に対しては、公正な手続きを軽視する準備が整っている、という事実である。彼女の主張は耳障りなものであり、彼女自身もそうであることを隠そうとはしていない。
この本の強みは事実から目を背けない姿勢にある。安倍元首相暗殺後の日本では、世論は硬直し、政治的動機が無情な行動を後押ししてきた。福田氏は、被害者という物語からはたして誰が利益を得て、誰が沈黙させられてきたのかを問いかける。そして、意図的であれ無自覚であれ、国家、メディア、活動家弁護士たちが、信教の自由の法的枠組みを変えてしまうような道徳的パニックを煽り、互いに手を結ぶ構図を読者に突きつける。過去の国家権力乱用の事例と照らし合わせることで、彼女は、日本がかつて同様の局面を経験してきたことを想起させる。また権利の喪失とは、決して大きな音を立てて始まるわけではないことを強調する。それは例外から始まり、異例の措置が静かに受け入れられ、やがて“その団体は他と同じ保護に値しない”という発想が受け入れられてしまうのである。
家庭連合の解散が、政治、金銭、社会的結束といった、広範な問題をめぐる象徴的な争点となっている現在の日本において、福田氏の本は重要な対抗軸を提示する。それは、世論に同調する誘惑に対抗し、慎重に構築された警告である。彼女は、統一教会を称賛することを読者に求めていない。代わりに、いかなる政府に対しても、噂や遡及的な道徳判断、虚偽の証言に基づき一宗教団体を解散させることはできない、という原則を堅持すべきと訴える。その意味で、『国家の生贄』は、まさに時宜を得た不可欠な一冊である。怒りによって単純化された議論に複雑さを取り戻し、調和を重んじる社会に対して、その背後にある非自由主義的な傾向を直視するよう訴える。彼女の結論に賛同するか否かにかかわらず、福田氏は、私たち自身が抱いてきた前提に向き合うための議論を促している。まさにそれこそが、今日の空気の中で示された市民的勇気である。


