BITTER WINTER

山上と悪しき教師たち:テロと呼ばないカルト的思考

by | Dec 6, 2025 | Documents and Translations, Japanese

手製の銃が安倍氏を殺した。しかし引き金を引いたのは、仕組まれた「モラルパニック」だった。それは反カルト・テロリズムの典型例である。

マッシモ・イントロヴィニエ

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Yamagami testifying in court
裁判で証言する山上(AI生成画像)

日本のメディアはいま、奇妙な言葉遊びを繰り広げている。安倍晋三元首相を暗殺した山上徹也を「テロリスト」と呼ぶべきかどうかと。検察は、2+2=4という当たり前の話を説明させられている者のように辟易として、答えは明白だと強調する。思想的な理由で面識のない政治家を殺害する――それは紛れもないテロなのだ。

しかし弁護側は、日本の反統一教会集団の弁護士やジャーナリストたちに支持されながら、これに異を唱える。山上はテロリストではなく、彼は悲劇の息子であり、母親の破産に巻き込まれた被害者であり、母親が統一教会に多額の献金をしたせいで人生を狂わされた男なのだと。そして安倍氏の罪は、どうやら統一教会関連イベントに祝賀のビデオメッセージを送ったことらしい。この物語の中では、山上はテロリストではなく、傷ついた復讐者であり、手製の銃を手にした民衆のヒーローのように描かれている。

そもそもこの議論自体が見当違いである。どんなテロリストにも個人的なストーリーはある。私は、宗教的動機があるとされる自爆テロについて、これまで何冊も著書を書いてきた。私が研究したパレスチナやチェチェンにおいて、自爆攻撃者は例外なく標的に対して恨みをもっていた(それが現実にせよ想像にせよ)。アメリカの著名な社会学者ローレンス・イアンナコーネと共著で私が書いた『The Market of Martyrs』(殉教者の市場)(トリノ:Lindau、2004)では、パレスチナでのフィールドワークをもとに、どのような恨みがテロリストを生み出すかを予測するアルゴリズムまで提案したほどである。

テロリストが恨みを抱えているからといって、その人がテロリストでなくなる訳ではない。むしろ恨みがテロの原料となるのだ。恨みを抱えた人の大半はテロリストにはならない。その中で一部が、テロに走るのであり、彼らは即座にテロリスト・犯罪者と呼ばれなければならない。山上のケースも、まったく例外ではない。たとえ彼の言う過酷な青春時代がすべて事実だとしても(そもそも疑う声もある)、それは単に、恨みが犯罪とテロへと転化した例が一つ増えただけである。

しかし、日本での議論は重大な点を見落としている。山上はただのテロリストではない。反カルト・テロリストなのだ。

私はこの問題について、四半世紀も前に、テロリズムに関する学術的研究の最も権威ある学術誌『Terrorism and Political Violence』で論じている。論文の題名は「西ヨーロッパにおけるモラルパニックと反カルト・テロリズム」(“Moral Panics and Anti-Cult Terrorism in Western Europe,” Terrorism and Political Violence, vol. 12, no. 1, Spring 2000, pp. 47–59)である。その中で私は、モラルパニックに関する文献について取り上げた。モラルパニックとは、メディアや政治家、活動家が脅威を過剰に煽り続けることで、社会全体が集団的な恐怖状態に陥る現象を指す。フィリップ・ジェンキンスらは、いかに「カルト」を敵としたモラルパニックが、差別や暴力を生み出すかを示した。そして私は、この暴力には名称があることを論じた。――テロリズムである。2000年の時点で、新たな学術的概念として設定するに足る事例が存在していた。――それが、反カルト・テロリズムである。エホバの証人や末日聖徒イエス・キリスト教会の宣教師に対する放火や殺害、フランスでの統一教会センター爆破、サイエントロジーへの暴行――いずれもこれらの団体に危険な「カルト」と名前を付けたモラルパニックによって引き起こされた事件である。案の定、私の論文は反カルト運動家たちから激しい攻撃を受けた。しかし、この概念は消えることはなかった。

2018年には、学術誌『Journal of Religion and Violence』が特別号「新宗教運動と暴力」のゲスト編集者を私に依頼してきた。そこで私は、暴力と新宗教運動の関係は双方向的であるという視点からこの問題の枠組みを示した。つまり、一部の新宗教運動は、信者への暴行からテロに至るまで、暴力の加害者となる場合があるが、別の新宗教運動では、暴力やテロの被害者にもなっている。私は歴史的な事例を幅広く検討し、さらに近年アメリカでサイエントロジー教会を標的に起きたテロ攻撃についても言及した。反カルト・テロリズムは、依然として存在しており、現在学術的に確立した概念となっている。

Police arrives at the crime scene after the assassination of a Taiwanese Scientologist at Sydney’s Church of Scientology in 2019. Screenshot.
2019年シドニーのサイエントロジー教会で台湾人信者が殺害された事件の現場に到着する警察。(スクリーンショット)

2019年に話を進めよう。オーストラリア・シドニーで、10代の少年がサイエントロジー信者の母親を「救出」したかったと訴え、サイエントロジー教会に押し入った。そして彼は、台湾出身の一人の信者を殺害した。裁判では、家庭の問題が原因で統合失調症を発症していたとして、少年には刑事責任がないと言い渡された。反カルト運動家たちはこの判決を、勝利だと賛美した。しかし、揺るがない事実がひとつある。少年は無実の人を殺したのだ。被害妄想とイデオロギーを動機としたテロ行為は、実に紙一重である。よく言われるように、パラノイアにも本当の敵はいるのだ。

山上のケースも、その延長線上にある。彼が安倍氏を殺害したのは、母親が破産してから実に二十年も経ってからのことだ。山上の統一教会への恨みに火が付いたのは、日本のメディアと活動家の弁護士が、長年にわたり統一教会を批判するモラルパニックを煽り続けてきたためである。恨みだけではテロリストは生まれない。恨みにモラルパニックが加わって、テロは生まれるのだ。

イタリアで共産主義テロが猛威を振るっていた時代、一部のマルクス主義社会学者たちは、同じマルクス主義者からさえ「悪しき教師たち(evil teachers)」と非難された。彼らは銃を手にすることも、攻撃を指示することもなかったが、彼らは資本家と反動政治勢力による陰謀に対抗するモラルパニックを作り出し、赤い旅団(Red Brigades=イタリア極左テロ集団)を育ててしまった。日本にも同じような「悪しき教師たち」がいる。それは、統一教会を「国家の脅威」と描き、反カルト・ヒステリーを扇動してきたジャーナリスト、弁護士、活動家たちである。彼らはいま、山上はテロリストではないと必死に主張する。なぜなら、もし山上がテロリストだと認めれば、自らの責任をも認めざるを得なくなるからだ。反カルト・テロリズムを生み出す空気づくりに、自らが加担していたというその事実を告白しなければならなくなるのである。

山上がテロリストか否かという日本での論争は、そもそも論争ですらない。それは単なる正体隠しである。山上によるテロを否定することは、反カルト・モラルパニックの存在そのものを否定することになり、パニックを作り出してきた「悪しき教師たち」を免罪する行為にほかならない。それは、恨みだけで暴力が説明できるかのように装うことでもある。しかし恨みは世界中どこにでも存在する。つまり、恨みを銃弾や爆弾へと変えてしまうのがモラルパニックなのだ。日本、イタリア、シドニーでも、犯行現場には常にパニックを作り出した者たちの指紋が残されている。山上はテロリストである。反カルト・テロリストである。そして、彼をテロリストと呼ぶことを拒む者たちは、決して真実を守ろうとしているのではない。彼らが守ろうとしているのは――自分たち自身である。


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