BITTER WINTER

鈴木エイト氏と安倍昭恵氏の「謝罪」:憎悪が道徳破壊へと変わるとき

by | Dec 9, 2025 | Documents and Translations, Japanese

反カルト・ジャーナリストは、安倍昭恵氏が夫の殺人犯に対して「謝罪的なこと」を述べると思ったと信じている。

マッシモ・イントロヴィニエ

Read the original article in English.

Anti-cult journalist Eight Suzuki appeared on the online streaming program “Nico Nama” on December 3. Screenshot.
反カルトジャーナリストの鈴木エイト氏は12月3日、オンライン動画配信番組「ニコ生」(ニコニコチャンネル「古谷経衡チャンネル」)に出演した。スクリーンショット。

スキャンダルは数多あれど、時に、品位そのものが崩れ落ちる瞬間がある。反カルト・ジャーナリストの鈴木エイト氏は長年、安倍晋三元首相が旧統一教会(現・世界平和統一家庭連合)の関連イベントに祝賀のメッセージを送ったことで「一線を越えた」と批判してきた。鈴木氏は、そのメッセージがどうやら山上徹也被告を暗殺へと駆り立てたと主張している。

しかし最近の「ニコ生」の配信(古谷経衡チャンネル)で、鈴木氏は自らその一線を越えてしまった。山上事件の公判に安倍昭恵氏が出廷したことに触れながら、鈴木氏は次のような考えを口にしたのである。「自分の夫(安倍元総理)がしてきたことで、被告人がこう思ってしまったことに関して」、逆に安倍昭恵氏から最初に山上被告に対して「謝罪的なこと」を述べると思ったと。

そう、あなたの読み方は正しい。鈴木エイト氏によれば、殺害された指導者の未亡人が、殺人犯に謝罪すべきだというのである。

歴史を振り返れば、許しを施す場面はある。被害者の遺族が、時に驚くべき精神性をもって加害者に慈悲を示すこともあるだろう。しかし許しとはあくまで自発的であり、主体的であって、誰かに裁かれるものではない。

しかし、謝罪とはすなわち罪を認めることである。昭恵氏に山上被告への謝罪を求めるというのは、夫の暗殺はある意味で彼のせいだったと宣言するに等しい。これは道徳の秩序を完全に逆転させる行為である。被害者の家族がまるで加害者側として扱われ、暗殺者は傷ついた魂として持ち上げられる。これは、高邁な道徳観を装った、極めて醜悪な被害者非難(victim-blaming)である。

では、なぜこのような思考の歪みが生じるのか。その理由は、鈴木氏の統一教会への過剰な執着にある。彼の憎悪は今や、統一教会と関わりを持つことは全て致命的な罪であるとみなす世界観へと変質している。それが慣例として続いてきた祝賀メッセージであったとしても。

教会が日本で合法的に活動してきたことなど、鈴木氏にとってはどうでもいい。ドナルド・トランプからジョゼ・マヌエル・バローゾまで、世界中の政治家が同様のメッセージを送っていたことも眼中にない。鈴木氏の空想の中では、安倍氏のメッセージが原罪となり、暗殺を説明するばかりか、未亡人に犯人への謝罪を求める根拠にまでなってしまうのである。

これはジャーナリズムではなく、狂信である。

鈴木氏のレトリックは、安倍晋三氏の名声はもちろん、昭恵氏、その家族や友人、そして犯罪とは無縁の家庭連合の数十万人の信者に対して、明らかに侮辱的だ。しかし鈴木氏は侮辱するだけにとどまらない。一種の共犯性を帯びかねない。安倍氏の暗殺を、誘発されたもの、さらには理解できるものとすることで、鈴木氏は暗殺者の世界観を正当化し、責任をテロリストから被害者へと転嫁してしまうのだ。宗教マイノリティへの憎悪がここまで肥大すると、有罪と無罪という基本的な区別すら揺らぎ始める。批判はいつしか侮辱へと変わり、最も危険なのは、さらなる暴力を生みかねないことである。

12月7日、鈴木氏はXに投稿し、自身の発言が文脈から「切り取られた」、悪意ある「解釈をされた」などと述べた。文脈から「切り取られた」という予測どおりの弁明は、最も古典的な言い逃れであり、後になって言うべきではなかったことに気づいた者の決まり文句である。しかし彼の発言はきわめて明瞭で、他の解釈など必要ない。彼が訴える「文脈」は、弁明の余地がないのだ。それは鈴木氏自身が10年以上続けてきた統一教会とその支持者への憎悪キャンペーンそのものである。

その後鈴木氏は、自身の見解はあくまで「仮定の話」だったとする回りくどい「説明」を投稿した。彼はこう書いている——「もし仮に山上徹也被告が安倍晋三元首相のビデオメッセージなどについて明確に安倍氏個人への憤りなどを回答した場合、自分の夫の言動や行動について統一教会の被害者を傷付けてしまっていたとしたら安倍昭恵さんの人柄からそのことに対しては謝罪の意を示したうえで“でも自分の夫は殺されるほどのことをしたのでしょうか?”と昭恵さんが山上被告に問い掛けるという展開もあり得るのではと思っていた」。これはまるで、釣り針から逃れようと必死にもがく魚のような言い訳に見える。しかも鈴木氏の場合、その釣り針は自分でつくり出したものである。言うまでもなく、彼はこれまで一貫して「安倍氏の言葉や行動が、旧統一教会による被害者を傷つけた」と主張してきた。鈴木氏にとってそれは決して「仮定の話」などではなく、「揺るがない前提」だった。

これは、釣り針から逃れようと必死にもがく魚のような言い訳に見える。しかも鈴木氏の場合、その“針”は自分自身が作り出したものだ。
いうまでもなく、彼はこれまでずっと「安倍氏の言葉や行動は旧統一教会の被害者を傷つけた」と主張してきた。鈴木氏にとって、それは決して“仮定”ではなかった。最初から“既定の事実”だったのである。

実のところ、焦点はもはや鈴木氏が安倍氏やその家族、さらには道徳や品位そのものを侮辱したか否かではない。侮辱したのは間違いない。今問われるべきは、ジャーナリストを含む人々が倫理を投げ捨て、テロ行為を免罪するようなレトリックを持ち出したとき、社会がどう対応すべきかという問題である。

メディアは、この歪められた構図を暴き、被害者と加害者を逆転させる言説に挑戦しなければならない。憎悪をかき立てる者は、公にされ、社会から距離を置かれなければならない。世論はこうしたナラティヴに異議を唱え、安倍氏の暗殺が彼の正当な意見と合法的な行為によって引き起こされたという構図を拒絶すべきである。宗教指導者と政治指導者は多様性を守るべきだ。そして、宗教マイノリティへの憎悪によって社会の道徳コンパスをねじ曲げ、暴力を「説明」し、暗殺された指導者の未亡人に犯人への謝罪を求めるような行為は、決して許されないと明言すべきである。

これはもはや正当な論争ではない。道徳の破壊行為である。そして社会はそのように対処しなければならない。


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