不満を抱いた元信者による不確かな証言は、ほとんど検証されることなく受け入れられた。一方、忠実に信仰を守ってきた二世信者たちの証言は、完全に無視された。
Bitter Winterによる書評
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福田ますみ氏の日本のベストセラー『国家の生贄』を読み解く本連載では、証言、政治、そして大衆感情が結びつき、ひとつの強力なナラティブとなっていった国家的ドラマを探究する。
第4章で福田氏が焦点を当てるのは、日本における反家庭連合運動の「顔」となった人物――「小川さゆり」氏である。
2022年、「小川さゆり」を名乗る若い女性が、あらゆるメディアに登場するようになった。彼女は「元統一教会教会長の娘」と紹介され、教団の教義によって人生を歪められたと訴える二世被害者と位置づけられた。メディアでの存在感は拡大し、彼女の証言は国会にまで届き、政府の迅速な行動を駆り立てる原動力となった。
小川氏のストーリーは、家庭連合に対する質問権行使や、「法人等による寄附の不当な勧誘の防止等に関する法律」という新法成立のきっかけとなった。世論では、彼女は統一教会によって傷つけられた二世の象徴となり、その存在は、解散を求める声をより正当化するものとして映った。
しかし、丹念な取材を重ねる記者である福田氏は、ほとんど誰も確かめてこなかった事実に目を留めた。小川氏の証言には時系列の食い違いがあり、証拠として提出された文書も、彼女のストーリーの重要な部分と矛盾していたのである。こうした信憑性への疑いは早い段階から生じていたが、ほとんど顧みられなかった。
真相を確かめるために、福田氏は彼女の両親に取材した。そこで語られた内容は、公に広まっていた物語とは大きく異なっていた。両親は、精神的な問題と長く向き合ってきた娘の姿とともに、二つの出来事を境に、家族や教会に対する彼女の感情が急激に変化した事実を語っている。その二つとは、安倍晋三元首相の暗殺と、全国弁連による記者会見である。
福田氏の懸念は、小川氏個人ではなく、彼女の証言を利用した“仕組み”に向けられている。福田氏は、政治家やメディアが、その正確性を十分に検証しないまま小川氏の証言を用い、結果、誤った情報が国の政策形成にまで影響を及ぼしたと指摘する。章の最後に残した、福田氏の問いが印象に残る――はたして彼女の物語をつくっているのは誰なのか。
第5章では、これまで注目されてこなかった人々へ焦点を移す。すなわち、現役二世信者たちである。小川氏が被害者の象徴とされたのだとすれば、家庭連合の現役信者、特に二世信者たちの声はほとんど公にならなかった。福田氏は、国民感情が硬化するなか、現役信者が直面してきた差別の実態を記録している。
2022年12月、小川氏を筆頭に解散を求めるオンライン署名約20万筆が文化庁に提出された。その様子はカメラに収められ、大々的に報じられた。一方、現役信者約2万3千人による直筆・実名署名は、「騒ぎになるから」と直接受け取ることを拒まれ、郵送するよう求められた。

その違いは明らかだった。匿名のオンライン署名は歓迎された一方で、実名を記した実在の人々による署名は門前払いだったのだ。福田氏はこれをありのままに、“差別”と呼ぶ。
文化庁への取材でも、担当者は不公平を認めず、それどころか福田氏が目にしたのは、手続きの公正さよりも岸田政権による解散への動きを早めることに精一杯な官僚の姿であった。結果はすでに決まっており、手続きはその後付けに過ぎなかった。
続いて、福田氏は現役信者の声に耳を傾ける。信者は日常的に「反社」「カルト」といった言葉にさらされ、内定取り消しや入居を拒まれたりする被害も発生している。さらには現役信者が記者たちの取材に応じても、都合よく切り取られるだけである。教会に肯定的な二世の声は、報道から完全に排除されていた。
福田氏は、問題の本質は宗教そのものにあるのではなく、スティグマを煽ってきた社会の側にあると論じる。信仰を通じて自分の国に貢献したいと願う若者たちは排除され、社会の周縁へと追いやられている。民主社会は、彼らを決して“有害な存在”として扱ってはならない。
第6章で福田氏は、「カルトだと負け」という暗黙のルールに支配された司法制度の実態を明らかにする。本章で取り上げられるのは、小川さゆり氏による発言をめぐり、家庭連合が申し立てた仮処分である。しかしこの申立ては、十分な審理が行われることもないまま、即座に却下された。
福田氏はこの判決を精査し、看過できない一連の問題点を明らかにしていく。判決文では、客観的な証拠と食い違う認定や、母親の陳述書に存在しない事実が前提とされた。次第に小川氏による証言の矛盾が明らかになったにも関わらず、裁判所は不自然なまでに彼女を擁護した。
こうした不当決定の背景に、日本の司法に根強く存在する、「カルトだと負け」という不文律があることを福田氏は指摘する。裁判官たちは世論の反発を恐れ、たとえ証拠がそろっていても、有利な判断を下すことを躊躇するのである。過去の旧統一教会をめぐる訴訟においても、事実や証拠よりもレッテルが先行するといった同様の傾向が繰り返されてきた。
現実はきわめて深刻である。法の下の平等が、特定の宗教に対して事実上機能していないのだ。

第7章では、畏怖と誤信によって、いかにして多くの不当判決が生み出されたかを検証する。具体的に、全国弁連が関与した数々の訴訟において、不当判決が積み重ねられてきた実態が明かされる。2022年に突如行われた旧統一教会への質問権行使は、被害状況の改善とは無関係に、世論と政治の圧力によって決定された。過去に全国弁連が質問権行使を求めた時は、被害件数が現在より多かったが、その要求は文科省によって退けられた。状況が改善していた2022年に限って質問権が行使された点は、他宗教の例と比較しても著しく公平性を欠く対応だった。
続いて福田氏は、本書を通じて繰り返し取り上げられてきたテーマ――拉致監禁し強制棄教させた元信者を、「被害者」として訴訟や世論形成に利用してきた問題――に改めて目を向ける。その象徴的な事例が「青春を返せ裁判」であり、原告の多くは拉致監禁を経て棄教させられた元信者だった。決定文には、虚偽の主張が判を押したように大量に用いられ、証拠改ざんの疑いも指摘されている。
全国弁連に対する福田氏の批判はきわめて厳しい。彼らが被害者救済を掲げながら、実際には将来の原告を“発掘”し、拉致監禁にも関与してきた可能性を示し、彼らの主張にはもはや信頼性がないと批判している。


