極めて不当な裁判所の判決が、ある宗教団体を抹殺しようとしている。
マッシモ・イントロヴィニエ
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1829年、大阪で3人の女性と3人の男性が見世物のように市中を引き回された末、十字架刑に処された。処刑場には、彼らの許されざる罪を記した札が掲げられていた。それは、「有害な教義」とされたキリスト教への信仰であった。為政者たちは、この宗教に理性的な人間が自発的に入信するはずがないと主張した。6人は、黒魔術によって信者を勧誘し、献金を集めていたと訴えられた。2020年のColumbia University Pressによる研究が示しているように、彼らはさまざまな信仰要素を取り入れた非正統派キリスト教徒にすぎず、ヴァチカンの陰謀とは程遠い存在であった。それにもかかわらず国家は、キリスト教のいわゆる“魅惑的な勧誘術”に対する恐怖にとらわれ、彼らを拷問し、処刑したのである。
それから二世紀が過ぎた。語彙は変わったが、そのロジックはそのままである。東アジアについては鄔雋卿(Wu Junqing)が、西洋についてはジェームズ・T・リチャードソン(James T. Richardson)が指摘しているように、かつて魔女を生み出した「モラル・パニック」は、いまや「洗脳」という形で現れている。科学の世紀とされた20世紀には、“魔術”は装いを変え、「洗脳」が想像上の犯罪となったのである。宗教的少数派が社会的に不人気となり、非難が成立するとなると、この言葉が持ち出される。
新宗教研究の多くの学者は、洗脳理論を疑似科学とみなしている。それは、地球が平らだと主張するのと同じぐらい、学問的根拠を欠くものだと考えられている。アメリカやヨーロッパの裁判所も、この見解を支持してきた。しかし日本では、神秘的なマインド・コントロール技術の存在を信じる考え方が、いまだに根強く残っている。それは、現代的な装いをまとった迷信である。
そして3月4日、東京高裁は統一教会(現在の世界平和統一家庭連合)の解散を命じた一審の決定を支持した。今回認められた一審の決定は、本質的に「洗脳」という非難――すなわち21世紀版の魔術――に依拠している。
裁判所の論理は明快である。裁判所によると統一教会は過去に、「洗脳」(または別の遠回しの表現であれ)によって一部の信者を説得し、本来の価値を大きく上回る価格の物品と引き換えに、高額の献金をさせていたとされる。反対者たちは、こうした取引を「霊感商法」と呼んだ。
しかし裁判官たち自身も、こうした事例がこの15年ほどの間にまれになり、ここ10年ではほとんど見られなくなっていることを認めている。高裁決定も、教会が2009年にコンプライアンス宣言を導入して以降、「確定判決または訴訟上の和解によって、信者が不法行為に当たる勧誘を行ったと認定される事例は少ない」と述べている。
しかし、高裁は教会が依然として献金の目標額を設定し、その多くを達成していることを理由に、教団側の主張を否定した。しかし実際には、集められた献金の額そのものは問題ではない。なぜなら判決が認めているように、違法に集められたとされるのは「少数の事例」にすぎないからである。これはほとんどの場合、献金は合法的に集められていたことを示す。
裁判所はまた、教団がその教義を変更していないことにも言及している。そもそもその教義とは、信者に高額の献金を促すものだとしている。これは危険なほどに、世俗の裁判官が宗教共同体に対し、どのような教義を信じるべきかを命令しようとしているのに近い。
さらに高裁は、教会がいわゆる洗脳の技術を持っている以上、それをいつでも用いる可能性があると主張する。しかし、これは決して法的論拠ではない。単なる観念論であり、かつての魔女裁判のロジックそのものである。一度魔女とされた者は、永遠に魔女である。
従来、日本の宗教法人法は、解散命令を出すには刑事判決が必要だと解釈されてきた。しかし今回、この原則は覆された。民事事件(敗訴したものもあれば、和解に終わったものもあり、教会側が勝訴したものもある)が、宗教法人を消滅させる十分な理由とされたのである。
安倍晋三元首相の暗殺以前から、反対派は旧統一教会の解散を繰り返し求めてきた。しかし、彼らの試みはいつも失敗してきた。では、何が変わったのだろうか。教会が高額献金を勧誘したとされる事例が増えたのだろうか。実際はその反対で、そのような事例は大きく減少していた。変わったのは、安倍元首相を殺害した山上徹也の発言によって引き起こされた、世論の感情である。山上は、自身の青春が母親の宗教団体への献金によって台無しにされたことへの恨みから、自らを統一教会の友だと述べた元首相を、殺害したのだと主張した。
しかし、このナラティブは専門家の検証に耐えなかった。日本で最も尊敬されているファクトチェッカーの一人である楊井人文は、山上の主張を検証し、家族の問題は母親が統一教会に入信する以前から存在していたこと、そして宗教によって一家が破滅したという叙述は事実でないと結論づけた。家族は貧困状態でなかった。山上も妹も、いずれも名門高校に通っていた。山上は私立大学の入試にも合格していたが、進学しなかった。しかしそれは貧困や母親の妨害からではなく、本人が意欲を欠き、大学進学を望まなかったからである。彼に無期懲役を言い渡した判決でも、「被告人の生い立ちは犯行に大きな影響を与えたとはいえず、その点を理由に酌量の余地があるとはいえない」と説明されている。
つまり新たな不正行為があったのではなく、暗殺後に起こった政治とメディアの嵐こそが、 “解散”が突然現実味を帯びるような感情的空気を生み出したのである。
ヨーロッパやアメリカの法学者たちは、この状況に驚きを隠せない。日本の裁判所は依然として、「公共の福祉を害すること」を解散の基準として持ち出している。だがそれは、日本が署名・批准している自由権規約(ICCPR)が定める、信教の自由を制限する正当な理由の範囲から外れている。人権に関する4人の国連特別報告者も、このような理由で統一教会の解散に進むべきではないと日本に警告してきた。
だが警告は無視された。高裁判決は、解散が自由権規約に違反しないと主張しているものの、説得力に乏しい。4人の国連特別報告者も、これとは異なる見解を示しているものの、高裁は依然として「社会的に相当か」という基準を用いており、まさにそこに自由権規約に違反する問題がある。
高裁はさらに、「公共の福祉を害すると認められる行為は、自由権規約第18条3項にいう『公共の安全、公の秩序、公衆の健康若しくは道徳又は他の者の基本的な権利及び自由』を侵害する行為に該当する」と主張している。しかし、それは違う。1980年以来、自由権規約人権委員会は繰り返し、日本に対して「公共の福祉」は第18条第3項に列挙された制限理由には含まれないと警告してきた。

高裁は、「解散命令は、宗教法人の法人格を失わせる効力を有するにとどまり、信者の宗教上の行為を禁止したり制限したりする法的効果を一切伴わない」と主張している。しかし、自由権規約が保護しているのは個々の信者だけでなく、宗教団体の法人としての権利もその対象である。制度や組織を持たない宗教は、やがて消滅せざるを得ない。
厳密に言えば、解散命令が「信者の宗教活動を禁止したり制限するものではない」という主張は正しい。日本は民主主義国家であり、信者が十字架にかけられることはない。ロシアでエホバの証人に対して行われているように、あるいは中国で数十の禁止された団体に対して行われているように、祈りがささやかれていないか警察が夜間に家庭を急襲することもないだろう。しかし日本は、信者を十字架にはつけていなくても、一つの宗教共同体全体を十字架につけているのである。
解散の影響は壊滅的である。解散が命じられれば、銀行口座や不動産を含むすべての資産は、最高裁の判断を待つことなく直ちに清算人に移される。これは日本特有の法的な異例と言える。
一審の決定以降、地方自治体だけでなく、民間のホテルでさえ「公共の福祉を害する」活動を支援することはできないとして、統一教会への施設の貸し出しを拒否した。宗教団体は天使たちの集まりではない。集まる場所を必要とする人間がおり、給与を受け取る牧師がおり、書籍や雑誌も印刷しなければならない。施設も資金もない状態で、信者はいったいどのように「宗教活動」を行えばよいのだろうか。
裁判所のこうした約束は、まもなく試されることになるだろう。もしその言葉が本気であるなら、日本の法律の下で信者たちが新たな団体を設立することは完全に認められているのだから、反対派によって嫌がらせを受けないことが保証されなければならない。また、信者やその家族に対する差別があれば、それを調査し、処罰しなければならない。そうでなければ、信者の活動が「制限されない」という約束は、単なる体裁にすぎない。
日本はかつて、三世紀にわたる迫害の中で数千人のキリスト教徒を殺害した。それでもキリスト教は生き残った。ローマ皇帝たちは初期キリスト教会を潰そうとしたが、やがてそれは世界最大の宗教となった。日本と韓国における反統一教会キャンペーンの背後にその影を落とす共産主義の中国は、数十万人のキリスト教徒を投獄し、拷問し、処刑してきた。しかし信者たちの数は今も増え続けている。ムハンマドの敵対者たちは、彼をメッカから追放すればその運動は消えると信じていた。だが今日、イスラム教の信者は20億人に達している。アドルフ・ヒトラーでさえ、ユダヤ教を消し去ることはできなかった。
迫害する者が勝利することは滅多にない。彼らは、自らの不敬な行いとともに終了する物語の序章を書いているにすぎない。
私は日本の多くの統一教会信者を知っている。若者もいれば高齢者もおり、女性もいれば男性もいる。いわば道徳的殉教とも言える不当な迫害に直面しながら、彼らが示してきた忍耐と強さは実に印象的である。やがて反対者たちが忘れ去られ、歴史の塵(ちり)の中に埋もれていった後も、なお信者たちは生き続けるだろう。宗教は往々にして、それを破壊しようとする勢力よりも長く生き続ける。そうした勢力はいま、自分たちが日本で「勝利した」と思っているかもしれない。しかし歴史は、別のことを示している。最後に笑うのは、たいてい迫害された者たちである。

Massimo Introvigne (born June 14, 1955 in Rome) is an Italian sociologist of religions. He is the founder and managing director of the Center for Studies on New Religions (CESNUR), an international network of scholars who study new religious movements. Introvigne is the author of some 70 books and more than 100 articles in the field of sociology of religion. He was the main author of the Enciclopedia delle religioni in Italia (Encyclopedia of Religions in Italy). He is a member of the editorial board for the Interdisciplinary Journal of Research on Religion and of the executive board of University of California Press’ Nova Religio. From January 5 to December 31, 2011, he has served as the “Representative on combating racism, xenophobia and discrimination, with a special focus on discrimination against Christians and members of other religions” of the Organization for Security and Co-operation in Europe (OSCE). From 2012 to 2015 he served as chairperson of the Observatory of Religious Liberty, instituted by the Italian Ministry of Foreign Affairs in order to monitor problems of religious liberty on a worldwide scale.


