厚生労働省が作成したガイドラインで“宗教に関係する心理的虐待”とされていることの多くは,信教の自由の行使に過ぎない。
マッシモ・イントロヴィーニャ(Massimo Introvigne)
第2部。第1部もお読みください。
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このシリーズの第1部では,厚生労働省が2022年の年末に発表した「宗教の信仰等に関係する児童虐待等への対応に関するQ&A」について分析した。このガイドラインは,未成年者には自分の宗教について他者に明らかにしない権利があるとしている。自分の宗教を明かすと,学校でいじめられたり,ばかにされたりするかもしれない,というのが理由だろう。そして,親は子どもに「特定の宗教を信仰していることが客観的に明らかとなる装飾品等を身につけることを強制」できないとしている。
恐らく日本人は,ヨーロッパで大論争になったイスラム教のヒジャブ問題を経験したことがないのだろう。また日本では,幼い頃からターバンを身に着けなければならないシーク教の少年もあまりいないらしい。ユダヤ教の少年は公の場でキッパと呼ばれる帽子をかぶってはいけないようだ。
子どもを宗教活動に連れていくことそのものは違法ではないが,「社会的相当性を著しく逸脱する」宗教活動に加わらせることは「心理的虐待」に当たるとされている。ガイドラインのこの部分も,宗教信条に基づき,周りと違う生き方をしたいと思っているに過ぎない人たちを差別する内容になっている。「社会的相当性を著しく逸脱」していると判断するのが誰なのか,またどのように判断するのかも不明確だ。
また,宗教団体に対して過剰に献金したために,子どもを養育できず,教育費を払えない親は,親権を失う恐れがあると書かれている。これは明らかに,安倍元首相の殺害後にクローズアップされた,旧統一教会への献金問題を念頭に置いたものだろう。
ガイドラインには,あやしい宗教団体に献金するために,学校に通う子どもがアルバイトで稼いだお金を取り上げるケースのことまで書かれている。日本でこのようなことが生じたとされているのは,以前旧統一教会に属していた小川 さゆり(仮名)という若い女性が自分の親について主張している事例だけだろう。だが,彼女の証言には信ぴょう性に欠けるところがある。


親や保護者は,子どもが「必要」な「治療」を受けることを拒否する場合,親権を失う恐れがあるとも書かれている。例として,「輸血を拒否」することや「輸血を拒否する旨の意思表示カード等を携帯」させることが繰り返し取り上げられている。名前こそ挙げていないが,これはエホバの証人をターゲットにしたものだろう。
カトリックや他のキリスト教団体もターゲットになっている。ガイドラインによると,日本の法律が未成年の女性に中絶を認めているケースで,親がそれを拒否するとネグレクトと判断され,親権を失う可能性がある。カトリック教会や一部の保守的なプロテスタント教会は,そうした法律の是非を論じることなく,教会員が中絶を認めたりそれに協力したりすることを例外なく禁じている。
たとえ宗教が関係したものであっても,性的虐待を正当化できないのは当然だ。とはいえ,このガイドラインは,子どもに「性的な表現」を含んだ資料を見せたり,性的な行為について話したりすべきではないとしている。これは聖書の幾つかの書に関して問題になるかもしれない。もっと大きな問題をはらんでいるのは,未成年者が宗教団体の「職員」に対して「本人の性に関する経験等を話すこと」も「性的虐待」に該当するとしている点だ。この場合,宗教関係者だけでなく,親も処罰の対象になる。
このガイドラインは事実上,カトリック教会で未成年者の告解を聞くことや,他の宗教における同様の慣行も禁じていることになる。カトリック教会では,7歳から告解を行うことができる。学術的な文献を見ると,ティーンエージャーや成人前のカトリック教徒が告解する罪の筆頭に挙げられるのは「性に関する経験」であることが分かる。そして,告解を促すための質問をするときには,性的な罪にも触れるはずだ。


ガイドラインは,普通養子縁組や特別養子縁組で養子になった児童について特別な規定を設けている。そして,宗教に基づく虐待を見つけるための方法を取り上げている。宗教を背景にした「心理的虐待」を受けている未成年者は,自分が虐待されていると自覚しておらず,虐待されていないと言うことが多いというのがその理由のようだ。それをうのみにしてはいけないと言いたいのだろう。児童相談所を支援するさまざまな機関が挙げられているが,その中には,旧統一教会問題の対策に取り組んでいる弁護士たちも含まれている。そのような弁護士との衝突は避けられない。
児童虐待との闘いは,称賛に値するポリシーといえる。残念なことに,宗教を背景にした性的虐待などの児童虐待が生じていることも事実だ。児童虐待は信教の自由によって保護されるものではない。多くの組織や人々によって子どもたちが打ち叩かれ,給料ももらえずに強制的に働かされ,性的な虐待を受け,売買されている。その中に,主要な宗教の聖職者など宗教関係者が含まれていることは周知の事実だ。子どもたちや家族の信頼を裏切っているそのような人たちは厳しく処罰されるべきである。
とはいえ,身体的暴行,工場や農地での奴隷労働,レイプ,売春の強制などが明らかな虐待であるのに対し,“宗教に関係した児童虐待”とか“心理的な児童虐待”というくくりは非常にあいまいなものだ。親には自分の信仰について子どもに教える権利がある。これは,多数派を占める主要な宗教に属する親だけの権利ではない。世間一般からすると“普通”ではない価値観を持つ,少数派の宗教を信じる親の権利でもある。ますます世俗化する今の社会では,幾つかの問題に関する大多数の人々の意見と,多くの宗教が教える事柄との間のギャップが広がりつつある。


信心深い親は恐らく,性や中絶や経済的な豊かさについて世間一般に見られる価値観は間違っている,と子どもに教えたいと思うだろう。映画や漫画や雑誌やビデオゲームの中に,多くの人は楽しんでいるものの,自分の子どもには見せたくない内容が含まれていると感じるかもしれない。中には,エホバの証人のように,誕生日を祝うのは聖書にある神の教えに反すると考える親もいるだろう。
また,ある親たちは,「悪いことをした人は牢屋に入れられるだけではなくて,地獄に行くかもしれないと教えることは,子どもが法律を守る良い市民になる上で役立つ」と言うかもしれない。あるいは,宗教団体や慈善活動のためにかなりの寄付をし,「気前よく与えるのはいいことだ」と教えるかもしれない。子どもが悪いことをしたら,告解に行って聖職者と話し合うよう勧める親もいるだろう。
こうした見方や行動に同意するかどうかは人それぞれだ。自分の教育観とは合わないと感じる人もいるだろう。だが,宗教信条に基づいて子どもをこのように教えることと,児童虐待やネグレクトを同一視するのは不合理だし,差別的だともいえよう。
多様化する宗教観や信教の自由を尊重するというのは,人が宗教を自由に実践することを認めるだけでなく,新しい世代や自分の子どもにそれを伝えるのを認めることも意味する。日本のような民主主義国が,安倍元首相の殺害によって高まった感情に流されて,憲法ならびに日本も署名した国連の「市民的,政治的権利に関する国際規約」で掲げられている信教の自由という大切なものを見失うようであってはならない。