BITTER WINTER

世俗の嵐:日本人の奇妙な宗教嫌悪

by | Sep 30, 2025 | Documents and Translations, Japanese

イアン・リーダーとクラーク・チルソン著『現代日本における非宗教性』は、日本でいま起きている事態を理解するための必読書である。

マッシモ・イントロヴィニエ

Read the original article in English.

Ian Reader and the new book he co-authored with Clark Chilson.
イアン・リーダーと、クラーク・チルソンの新しい共著

イアン・リーダーとクラーク・チルソンの共著『On Being Nonreligious in Contemporary Japan: Decline, Antipathy, and Aversion to Institutions』(仮訳:現代日本における非宗教性――衰退、嫌悪、制度への反感)(ブルームズベリー社、ロンドン、2025年)は、きわめて時宜にかなった、しかし同時に不完全な書物といえる。本書は、宗教が単に無視されるのではなく、むしろ積極的に拒絶される社会についての学術的考察が展開されている。日本で現在進行中の奇妙な現象を理解するうえで、そして民主主義国家における世俗化や宗教の自由を考えるうえで、必読の一冊といえるだろう。もっとも、本書のいくつかの結論については、私の見解では、さらに踏み込んで論じる余地がある。

本書の主張はじつに大胆である。日本における宗教嫌悪は、新宗教や制度化された宗教にとどまらない。仏教や神道、さらには「自然宗教」と呼ばれるような慣習的な儀式にまで及ぶ、広範な文化的傾向だという。リーダーとチルソンは、日本人は宗教組織に属さないものの、今もささやかに祖先祭祀を行うという耳障りよい見方に異を唱える。しかし彼らは、日本では信仰も実践も急速に衰退していることを示す、無視できない統計を提示している。すでに何千もの寺院や神社が閉鎖された。そして日本特有の低い出生率と婚姻率に加え、家族や地域共同体の崩壊がかつて宗教生活を支えていた社会的な基盤を着実に壊してきたのだ。

しかし、著者によれば、この衰退は単なる人口変動の結果ではない。むしろ意図的に作り出されてきた側面があるという。リーダーとチルソンは、日本の世俗的な風土を形づくってきた人物たちを「モラル・アントレプレナー(道徳的起業家)」と呼び、その存在を紹介する。そして、反宗教的な感情を広めてきた三つの勢力を挙げている。

まず第一に「メディア」である。新聞、テレビドラマ、漫画、映画などは、「宗教嫌悪の拡声器」として機能してきた。一様に敵対的なわけではなく、既成宗教は新宗教に比べて比較的寛容に扱われることもあった。しかし大衆に宗教への疑念を植えつけるうえで、メディアが果たしてきた役割は非常に大きい。

第二に「反カルト運動」である。弁護士や学者、脱会者の証言、さらには一部の行政機関までもが、創価学会やエホバの証人、統一教会といった団体を標的にキャンペーンを展開してきた。転機となったのは1995年のオウム真理教による地下鉄サリン事件で、この出来事をきっかけに「マインド・コントロール」を行う「カルト」は社会への脅威という言説が定着した。しかしリーダーとチルソンは、米国のディプログラマーであるスティーヴン・ハッサンの著作がオウム事件以前にすでに日本語に翻訳されていたことを指摘し、当時すでにパニックを引き起こす基盤が形成されていたと述べている。彼らはさらに、統一教会を標的として活動してきた反カルト弁護士ネットワークの役割や、1995年に設立され2004年に現名称となった「日本脱カルト協会」、そしてその中心人物である心理学者・西田公昭の役割を強調している。また、オウム事件以降、どのように多くの新宗教学者――中にはオウムに理解を示す学者もいた――が反カルト側に合流したかを述べている。同時に大学も、若手研究者が新宗教研究を出来ないようにした点を指摘している。

反カルト活動家・西田公昭 (スクリーンショット)
反カルト活動家・西田公昭 (スクリーンショット)

本書が見逃しているのは、統一教会とその他の保守的な宗教団体に対する反カルト運動において、左派政治が大きな役割を果たしてきた点である。二人の著者はおそらく日本人研究者と同様、この側面は統一教会やその支持者によって過度に強調されていると考えるかもしれない。しかし実際には、左派系の弁護士である山口広らが反統一教会キャンペーンを始めた主な理由が、文鮮明師が設立した国際勝共連合を打つためであったことを示す資料が存在している。国際勝共連合は反共候補への選挙支援で成果を上げ、さらに左派が強く反対していたスパイ防止法の制定を推進していた。

第三は、「宗教」そのものである。著者らは、宗教団体の非倫理的な行為が自らの衰退を助長してきたと論じている。宗教はしばしば自らの最大の敵となってきた、というわけだ。これは否定できない事実だろう。もっとも、それは政党や企業、さらには大手製薬会社についても同じことが言える。リーダーとチルソンは、小規模な団体が自殺を扇動したり詐欺を働いたりした事例を挙げる。また、神道が戦時中の国家主義と結びついていたこと、仏教寺院が葬儀(さらには水子供養やペット供養)を金儲けに利用しているという評判が、人々の信頼を損ねてきたことも指摘している。

リーダーとチルソンは、日本には宗教的不祥事の「とりわけ悪質な例」があると示唆している。だが私は、それが他国より深刻だとは考えない。確かにオウム真理教の事件は凄惨であった。しかし、イスラムの名のもとに行われたテロや、聖職者による大規模な性的虐待スキャンダルなど、他国にはさらに深刻な事例が存在する。日本の宗教犯罪は重大ではあるものの、決して特異なものではない。

私と著者らの見解が分かれるのは、統一教会とエホバの証人の扱いについてである。著者らはおおむね、統一教会信者による「霊感商法」といわれる高額な宗教物品の販売、そしてエホバの証人における体罰や輸血拒否に対する反カルト側の批判を受け入れている。しかし、ここにはより丁寧な視点が必要だと考える。統一教会は2009年に「霊感商法」を終了したと主張しており、東京地裁も解散命令の決定において、安倍元首相暗殺の時点ではクレームがほとんど無くなっていたことを認めている。ところが地裁は、その実践を支える教義自体は変わっていないため、未報告の事例や将来的な再発の可能性があるかもしれないと推測した。しかし、仮説上の犯罪に対する憶測は、証拠とは言えない。

エホバの証人に関して言えば、西田のような批判者は1950年代の文献を引用し、エホバの証人の元信者の若い頃の証言に依拠する傾向があるが、これは体罰に対する考え方が変化してきたという事実を無視している。社会学者たちはそのようなしつけが当時は日本の一般家庭でも広く行われていたもので、エホバの証人に特有のものではなかったと指摘している。未成年の輸血をめぐる問題についても、他の民主国家では一時的に親権を移すといった実践的な解決策が見出されてきており、輸血に代わる医療手段も発展してきている。

共著者クラーク・チルソン (スクリーンショット)
共著者クラーク・チルソン (スクリーンショット)

本書で最も挑発的な場面の一つは、多くの日本人はなぜ宗教が世俗社会で特別な保護を受ける必要があるのか質問すると著者らが報告していることだ。私が驚いたのは、その最も明白な答えである、日本が署名・批准している自由権規約(ICCPR)に言及しなかったことである。自由権規約は、世俗的な企業や市民団体に与えられる以上の保護を、宗教や宗教に対する信仰(無神論を含む)に対して保障している。これは単なる見解ではなく、拘束力を持つ国際法である。

日本政府は一貫して、自国の法制度に対する国連の批判を避けてきた。「公共の福祉」を害するとみなされた宗教法人を解散できるという、危険なまでに曖昧な基準を正当化してきたのである。さらに、「子どもへの宗教的虐待」を対象とした法律への国連の懸念にも不十分な回答しか示さず、宗教または信条の自由に関する国連特別報告者による現地調査の要請にも、いまだ応じていない。日本には、世界人権宣言とは異なり、法的拘束力をもつ自由権規約の締結国であることの意味を理解している人はほとんどいないように見える。

特筆すべきは、リーダーとチルソンは最終章でこうした宗教の自由にかかわる問題に触れている。しかし、事態の深刻さを考えれば、単なる言及にとどめるべきではない。日本が行き過ぎた民主的世俗主義の事例とならないためには、自ら署名した国際的な法的義務に真摯に向き合うべきである。

本書『On Being Nonreligious in Contemporary Japan』はきわめて重要な一冊である。明快で、多層的で、そして難しい問いを避けない。この本は、宗教が単に姿を消したのではなく、積極的に拒否されてきた文化的風景を描いている。私はいくつかの点で著者らに異論を抱くものの、その勇気を大いに評価したい。宗教の自由がますます脅されつつある今日、リーダーとチルソンは私たちに問いを投げかける。真の脅威とは「信仰」ではなく、信仰はこれ以上意味を持たないという信念ではないかと。

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