1992年に教会を離れた学者が、家族連合を解散させた決定が教会の神学を誤って解釈したことを非難する。
仲正昌樹
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高裁判決を読んで、私にとって驚きだったのは、裁判所が家庭連合(旧統一教会)の教義について独自の解釈を行い、それによって解散命令を正当化していることです。教義をどのように理解し、実践するかは本人たち以外に知り得ないのであるから、法はそこに踏み込まず、教義の評価については中立性を保つというのが近代法の大原則のはずです。板まんだらが日蓮正宗の信仰の対象であるかが問題になった事件で最高裁は、「宗教上の本質である信仰対象の真否や宗教上解決すべき教義の問題は、内心の信仰に直接かかわるものというべきであり、裁判所が法令を適用して終局的に解決できる事柄ではない」(最高裁判所昭和51年(オ)第749号同56年4月7日第三小法廷・最高裁判所民事判例集35巻3号462頁)との見解を示しています。
オウム真理教の解散命令に対する特別抗告審でも最高裁は、「法八一条に規定する宗教法人の解散命令の制度は、前記のように、専ら宗教法人の世俗的側面を対象とし、かつ、専ら世俗的目的によるものであって、宗教団体や信者の精神的・宗教的側面に容かいする意図によるものではなく、…」(最高裁判所平成8年(ク)第8号同8年1月30日第一小法廷判決)と、教義面に立ち入ってはいないことを確認しています。
しかるに、高裁の決定を見ると、肝心なところで教義を独自に、かなり悪意に解釈している箇所が多々見られます。例えば、「先祖解怨感謝献金についてみると、上記のとおり、『先祖解怨』には、先祖解怨感謝献金を完納することが必要とされており、しかも求められる献金の額は、信者の経済状態にかかわらず一定であり、かつ高額である(…)。したがって、対象者に対し、上記内容を伝えてその不安をあおり、『先祖解怨』の完了を求めることは、不相当献金等勧誘行為等になりかねない危険を内包しているというべきである」(高裁判決、128頁)と、教義ゆえに高額献金の強制は不可避であるかのように述べ、これに関連する教団内部文書を示していますが(同、99頁以下)、それらが実際に信者にどのように受けとめられたのか、そもそも個々の信者に対して強制力を持っていたのか、それはどの程度のものなのか検証した形跡はありません。
裁判所は、教祖の名前で何かが推奨されたり、目標として呈示されたりすると、それが信者にとって逆らえない絶対的な命令になると考えているようですが、元信者の私からすると、信者の信仰の実体からかけ離れた不当な決めつけです。教義に関連した文書が、信者にとって具体的にどういう意味を持っているか検証することなく、これによって信者は〇〇するに違いないと決めつけるのは、専断的な教義の解釈に他なりません。
裁判所は、教団が再び「不相当献金等勧誘行為」を行う根拠として、亡くなった教祖の夫人韓鶴子氏が、「日本という国が恵みを受けて経済大国になれたのは、天が祝福したから。天からの祝福を受けた者は、必ず恵みを施さなければならない」と発言したことを挙げていますが(同、149頁)、こうした教義の内容を含む抽象的な表現が個々の信者に対する献金の強制に直結すると考えるのは、飛躍にも程があります。裁判所は更に、「韓鶴子の上記①、③の発言は、文鮮明が、『エバ国家』又は『母の国』である日本の信者らが無理をしてでも世界の国々のために経済的援助をすべきであるとする考えの下、…」(同、150頁)と、教義を持ち出して、献金の強制に必然性があると推測していますが、このような大雑把な教義の解釈で、数万人の信者がいる宗教団体の運命を決してしまうのはあまりにも乱暴で、信者たちの内心への不当な干渉としか思えません。

この問題は、「非訟事件」扱いをめぐる問題とも関わっていると思います。宗教法人法第81条第1項に基づき、宗教法人の解散命令は、例外なく非訟事件として扱われます。非訟事件であるため、公開されません。当事者間の対立構造ではなく、裁判官の職権による簡素な手続きで迅速に解決されます。
対審裁判であった場合、教義自体が「不当献金等勧誘行為」を必然的に生み出すと解釈できるか、その判断を裁判所がすべきか、というのは憲法上、「法の支配」の理念上重要な論点ですので、争点化し、公開の法廷で双方の主張を聞かねばならないはずです。ところが、非訟事件であるがゆえに、この重要な問題が、裁判官の表面的な解釈で処理されてしまったとしか思えません。
国家がある宗教団体の教義を、当事者たちの意見を聞くことなく、独自に解釈し、それに基づいて信者たちの将来に重大な帰結をもたらす決定を行うのは、前近代のヨーロッパにおける異端審問の発想と同じではないでしょうか。日本における教義の専断的解釈ということで想起されるのは、戦前の大本教に対する弾圧事件です。
第一次大本事件(大正10年)では、大本教の発行する雑誌に掲載された記事が天皇の行動を妄評するとか、統治権を無視しているといった理由で、教祖等は不敬罪で起訴されています(大本七十年史編纂会『大本事件史』、71頁以下)。この時は、大正天皇の崩御に伴う大赦令で免訴となりますが、第二次大本事件(昭和11年)では、教義で言われている「現世ノ立替立直」「みろく神政成就」などが「国体変革」の試みであり、治安維持法違反と見なし、教祖等は起訴、関係八団体は結社の禁止、解散を命じられました(同、261頁以下、及び、338頁以下)。

しかし、大阪控訴院(昭和17年)は、大本教の教義を検討したうえで、「立替」というのは「神界」のことを述べているのであって、「地上現界」における国体変革の試みだと解すべき証拠はないとして、治安維持法に関しては無罪の判決を下しています(同、436頁以下)。当時の法体系が、個々の宗教の教義が国体に反するものか否か判定する権能を国家権力に与えていたので、無罪判決を出すにしても、教義にある程度踏み込まざるを得なかったわけです。
因みに、宗教法人法の前身である宗教団体法(昭和14年成立)は第16条で、「宗教団体又ハ教師ノ行フ宗教ノ教義ノ宣布若ハ儀式ノ執行又ハ宗教上ノ行事ガ安寧秩序ヲ妨ゲ又ハ臣民タルノ義務ニ背クトキハ主務大臣ハ之ヲ制限シ若ハ禁止シ、教師ノ業務ヲ停止シ又ハ宗教団体ノ設立ノ認可ヲ取消スコトヲ得」と、「安寧秩序」や「臣民ノ義務」の名の下に、国家が宗教団体の教義や行事に干渉することを前提にしています。
日本国憲法の19条、20条、宗教法人法は、戦前における宗教等の教義に対する、国家権力の不当な干渉を防ぐ目的で制定されたはずです。宗教法人法は1条2項で、「この法律のいかなる規定も、個人、集団又は団体が、その保障された自由に基いて、教義をひろめ、儀式行事を行い、その他宗教上の行為を行うことを制限するものと解釈してはならない」と謳い、教義を広める自由を前提にしています。
こうした背景を考えると、家庭連合の教義に対する独自解釈によって、将来の危険を推測し、解散を命じる東京高裁の決定は、治安維持法や宗教団体法の時代に逆行しかねない危険を孕んでいます。最高裁の審理では、危険極まりない高裁の判断の誤りを正し、憲法19条、20条、宗教法人法の本来の役割が回復されることを切に願う次第です。

Masaki Nakamasa (born February 22, 1963) is a Japanese philosopher and intellectual historian. He is a professor at the Faculty of Law, Institute of Human and Social Sciences of Kanazawa University. His specialties are History of Thought, Fundamental Law, and General Literature. Born in Kure City, Hiroshima Prefecture, he entered the University of Tokyo’s College of Arts and Sciences in 1981. He joined the Unification Church around that time and was active in the CARP (Collegiate Association for the Research of Principles) Movement at the University of Tokyo. He left the Unification Church in 1992 and studied abroad in Germany. He became an associate professor at Kanazawa University’s Faculty of Law in 1998 and a professor at the same university in 2008.


