ディプログラミングを受けた元信者たちは、「統一教会を訴えるか、または再び監禁されるか」と迫られていた。解散命令は、このようなケースが根拠にされた。
パトリシア・デュバル
Read the original article in English.
※本稿は、2025年6月30日に国連の関係特別報告者に提出された報告書を掲載したものであり、一部は「Bitter Winter」に掲載されたディプログラミングに関する連載記事を再構成したものです。

ディプログラミングをされていた監禁中の信者たちは、ディプログラマーと連携していた弁護士のもとに連れて行かれ、解放と引き換えに統一教会に対する金銭的請求を起こすよう強要されていた。彼らは、何十年後であっても、家族やディプログラマーによって再び拉致監禁される可能性を避けるため、その訴えを維持しなければならなかった。
政府が根拠とした32件の民事訴訟は、こうしたディプログラミングの構造を明確に示している。判決文では、「被害者」は監禁され、「救出」または「保護」されたと記しているが、これらはすなわちディプログラミングを受けたことを意味し、信仰を棄てることを強いられ、統一教会を訴えるよう「説得」されたことを示している。
原告らが自由意思の侵害を訴えたこれらの訴訟は、統一教会に対して意図的に仕組まれたものであったと見て間違いないであろう。なぜなら、信者が献金をしていた当時、彼らの信仰を放棄させるためには、強制が必要だったという事がそれを証明している。
ある裁判では、3人の原告はいずれも成年でありながら、家族により拉致監禁され、プロテスタント牧師によってディプログラミングされた。その説得の内容は、真のキリスト教は統一教会の教えとは異なるというものだった。(2001年4月10日 神戸地裁)
高澤守牧師は、法廷で反対尋問を受けた際、以下のように証言している:「Q:証人が今までやってこられた救出活動に対して被告統一協会のほうがあれは拉致監禁であるというふうに非難していることはご存じですね。A:はい、知っております。Q:そういう非難に対してはどのようにお考えでしょうか。A:これはやっぱり拉致監禁ではなくて、親御さんが一緒なわけですからあくまでも『保護』と心得ております。」(1996年3月26日 神戸地裁、証人調書p.81)
さらに彼は次のようにも証言している:「Q:拘束したのはいつごろからですか。A:今申し上げましたように、10年ぐらい前からだと思いますが。それは私だけではなくて、全国的なそういった救出に携わってくださってる牧師さんたちの大体統一した、そういうことだと思います。」(1996年5月21日 神戸地裁、証人調書p.25)
ディプログラマー(高澤)は、この行為が通常は違法であることを知っていたと自ら認めたうえで、なおも継続する意志があることを次のように正当化した。
「Q:救出活動を受けなくても自然脱会したり、それから統一協会から離れていったりというような人はいるんでしょうか。A:もうしっかり統一協会の信仰を持たれた方は、自然脱会ということは私は不可能だと思います。」(1996年3月26日 神戸地裁、証人調書p.81~82)。

統一教会信者の揺るがぬ信仰を壊すために、ディプログラミングという手法は考案され、政府の黙認のもとで「全国的な」活動へと発展した。ディプログラミングを根拠としたこれら全ての民事裁判において、裁判所は少なくとも暗黙のうちに、このような強制的な棄教が続けられてきたことを容認した。
たとえば、2001年の札幌地裁において、原告らは統一教会の「伝道活動」や自由意思の侵害を訴えたが、法廷の事実認定によれば、原告らは裁判の前に監禁され、強制的に脱会させられていた。
被告側弁護士が、彼らの証言は信頼性に欠けると主張したにもかかわらず、札幌地裁はこの主張に応えることなく、原告の主張を認め不法行為の成立を認定した。控訴審では、札幌高裁も前審の判断をおおむね維持し、ディプログラミングについては具体的な見解を示した。
控訴審の判決では拉致監禁について以下のように述べている:
「控訴人(教団)は、多くの被控訴人らが、身体の自由を拘束されるなどの手段によって棄教に至っていることが重大な問題であり、これを無視した判断は司法の公平・公正に反すると主張する。上記認定のとおり、被控訴人らはいずれも控訴人を脱会(棄教)した者であり、脱会に至るまでの過程において親族らによる身体の自由の拘束等を受けた者も多く、このような拘束等は、当該被控訴人らとの関係においてそれ自体が違法となる(正当行為として許容されない。)可能性がある。しかし、それは上記のような行為をした者と当該被控訴人らとの関係であって、必要に応じて別途処理されるべきことがらにすぎず、このような事情が存在することは控訴人の被控訴人らに対する責任に何ら消長を来すものではない(むしろ、その終期をもたらしたものといえる)。したがって、控訴人の責任を判断するに当たって控訴人の主張するような脱会までの経緯等を斟酌しなかったからといって、その判断が司法の公平・公正に反することになるものではなく、上記主張は失当である。」
要するに、原告たちが再度の監禁を恐れ、強要のもとに教会を訴えたという事実は、まったく考慮されなかったのである。
実際、裁判所は「身体の自由の拘束」があったことを認めたうえで、さらに踏み込んで「むしろ、その終期をもたらしたものといえる」と述べた。つまり、少なくともディプログラミングによって統一教会による「洗脳」が終了し、原告らに対する(統一教会の)不法行為が終わったという意味である。
この問題を個人の問題として処理し、これらの訴訟は強制のもとで行われていたという事実を意図的に無視したのである。裁判所は、ディプログラミングや違法な監禁という、本来公共秩序の問題として、国家の責任が問われる問題を、容認したのである。
これは、統一教会に対するどんな攻撃も許されるという、民事裁判所のあからさまな偏見を示している。政府が教団の解散請求の根拠とした、ディプログラミングを受けた元信者によるすべての訴訟において、原告(元信者)らは監禁され、強制的に脱会させられていた。しかし裁判所は、これらの裁判の内容からは、一切結論を導き出さなかった。その代わりに、裁判所は教団が「不当な影響力」や「伝道的洗脳」を施していたとした。しかし、こうした表現は曖昧かつ恣意的であり、欧州人権裁判所も「科学的根拠がない」として厳しく批判している。(2010年6月10日、モスクワのエホバの証人対ロシアの事件、302/02、§129)
これは、司法の公平性と、公正な裁判を受ける権利の明白な侵害であり、日本が国際人権規約に基づいて負う義務に違反したとして、国家の責任が問われる問題に該当する。
東京地裁が解散命令を下すにあたって根拠とした民事訴訟においても、裁判官たちはまたしても、この曖昧で、既に正しくないと結果が出ている「マインド・コントロール」理論を根拠とした。元信者は自らの信仰と自由意思によって献金や入会をしていたという統一教会からのすべての証拠を退けるため、この理論を根拠としたのだ。
裁判所は、同じマインド・コントロール理論に基づき、時効の適用を恣意的に拒否し、原告の提訴が無効であるとの訴えを拒否した。問題となった事実はすでに20年から40年前のものであったにも関わらず、裁判所は被告側の「時効によって訴えは消滅している」という主張を退けた。
裁判官たちは、「被害者」は反統一教会の弁護士連絡会と出会うまで、自分たちが被害に遭っていたことに気づかなかったとして、時効制度を民事事件に適用することを拒否した。

裁判所は、献金をしていた信者たちは統一教会の不当な影響下にあったとし、彼らが弁護士に出会ったことで「目覚め」、彼らにより訴訟を起こすと決めた時点を、時効の起算点とした。これは法の恣意的かつ差別的な適用であり、教団に対する裁判での偏向性を示している。
全国弁連の元メンバーである伊藤芳朗弁護士は、上記の裁判(後藤徹氏がディプログラマーらを訴えた東京地裁での訴訟)に提出した陳述書の中で、この状況を認めている。伊藤弁護士は2012年11月、「他の事件では認められないような請求も相手がカルト宗教だと安易に認められてしまう」「民事訴訟では、『カルト宗教だと負け』という裁判所の枠組みたいなものがある」と証言している。
さらなる例として、このような完全に恣意的で、偏向的な概念の適用は、東京地裁が下した解散命令の文中でも、「c. 顕在化していない被害の存在が否定されないこと」といったような表記から探すことができる。
裁判所は、近年新たな被害申告が存在しないことを認めながらも、なお教団の解散を正当化するために、「教団や信者による不当な影響力」という理論に基づき、声を上げられない仮想の被害者が存在する可能性があると判断した。
裁判所は次のように述べている:「訴訟上の和解及び裁判外の示談において主張されたもの以外に、違法な献金勧誘等行為による顕在化していない被害が存在することは否定されないというべきである。」
ここで裁判所は、「〜は否定されない」という表現を用いることで、立証責任を逆転させ、あたかも被告側(教団)が「顕在化していない被害が存在することを否定していない」と示唆したのだ。しかし、本来であれば、原告側がその立証責任を負うべきである。
裁判所は、さらに踏み込んだ推測を行い、次のように述べた:「周囲の信者等との人間関係等といった心理的な障壁」などを想定すると、「違法な献金勧誘等行為により被害を受けた者の全てが弁護士に依頼をするなどして解決を求めるとは考え難い。」
そして、いかなる主張も行っていない「被害者」たちまで考慮したうえで、「被害は減少傾向にあるとはいえ、依然として相当程度存在することが想定される。」と推論した。これは、事実に基づかない純然たる推測と憶測にすぎず、「適正手続」および「公正な裁判を受ける権利」という司法の根本原則に明確に反するものである。

Patricia Duval is an attorney and a member of the Paris Bar. She has a degree in public law from La Sorbonne University, and specializes in international human rights law. She has defended the rights of minorities of religion or belief in domestic and international fora, and before international institutions such as the European Court of Human Rights, the Council of Europe, the Organization for Security and Co-operation in Europe, the European Union, and the United Nations. She has also published numerous scholarly articles on freedom of religion or belief.

