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オウム事件後の日本における「マインド・コントロール幻想」4.反カルト運動

by | Sep 26, 2025 | Documents and Translations, Japanese

ディプログラミングが西洋社会で禁止された後も、日本ではそれが行われ続け、弁護士や左翼活動家が支援に回った。

大田俊寛

*2025年3月20日、パリのアジア東洋フランス研究所(IFRAE)が主催したシンポジウム「オウム事件が日本社会に遺したもの:地下鉄サリン事件から30年」における論考

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Ted Patrick (b. 1930). From X.
テッド・パトリック(1930~)Xより

しかしながら、冒頭で述べたとおり、マインド・コントロールという幻想に取り憑かれていたのは、何もオウムだけではありませんでした。戦後に起こった「反カルト」の運動では、洗脳やマインド・コントロールといった概念が盛んに用いられ、さらにはそこから「ディプログラミング」と呼ばれる手法が編み出されていったからです。最後に、そのような状況について見ていきましょう。

ディプログラミングという概念を最初に提唱したのは、アメリカの著名な反カルト活動家のテッド・パトリックという人物でした。第二次大戦後のアメリカでは、多様な新宗教の運動が盛り上がり、そのなかには、社会との摩擦を起こす団体も少なくありませんでした。

このような状況に対してテッド・パトリックは、1970年代初頭、カルトに入信している人々は洗脳によって自由意志を奪われているため、強制的に団体から引き離し、脳内に深くプログラム化されたものを解かなければならない、と主張しました。彼はこうした理論と実践により、「ディプログラミングの父」と称されています。

1970年代~80年代のアメリカでは、子供がカルトに入信したことを心配する親が「ディプログラマー」に対応を依頼し、強制的に棄教させる、ということが頻発しました。とはいえ、ディプログラミングの際には、信者を拉致して監禁し、拷問を加えることが常態化したため、次第にアメリカ社会で問題視されるようになりました。ディプログラマーが暴力の行使によって有罪宣告を受けるケースも増加していきました。

テッド・パトリックは1978年、「カルト警戒ネットワーク(CAN)」を結成し、ディプログラミング運動の組織化に努めました。しかしながら、同団体も多くの訴訟にさらされ、1995年には百万ドルの損害賠償を命じられました。そのためCANは、翌96年に破産・解散しています。

フランスの事情については、私よりも皆さんの方が詳しくご存じでしょうから、ここでは触れません。一言だけ述べておけば、1970年代~80年代に掛けて、フランスでも散発的にディプログラミングが行われたものの、不法行為であるという批判が直ちに提起され、終息していったと聞いています。

以上のように、アメリカを始めとする欧米社会では、洗脳やマインド・コントロールの疑似科学性、ディプログラミングの危険性が徐々に知られるようになり、こうした理論や実践は「カルト対策」として禁じ手である、という共通了解が形成されていきました。ところが日本では、それとは大きく異なる状況が展開しました。すなわち、1960年代から現在に至るまで、ディプログラミングの運動が奇妙な仕方で広がっていったのです。その経緯を概観することにしましょう。

日本で最初にディプログラミングを行ったのは、日本イエス・キリスト教団牧師の森山諭氏あったと言われています。同教団は、ホーリネス運動の流れを汲む、熱心な福音主義の団体です。ホーリネス系のキリスト教徒は、戦前は国家から弾圧されていましたので、森山氏もそれに果敢に抵抗した経歴を持っています。そして戦後になると、彼は数多く現れた「異端」的な新興宗教に対して、積極的な論駁を行ったのです。

森山諭牧師(1908~1996)
森山諭牧師(1908~1996)

なかでも森山氏が危険視したのは、1950年代末に日本に進出した、統一教会(現:世界平和統一家庭連合)でした。森山氏は統一教会に対する批判書を執筆すると同時に、入信した若者たちを脱会させる運動を手掛けました。それは徐々にエスカレートし、1966年になると、家族の手を借りながら信者を教会内に監禁し、強制的に棄教させるようになりました。森山氏は1985年に出版した自著のなかで、これまで130人以上の統一教会員を「救出」してきた、と記しています。

1967年には、朝日新聞に「親泣かせの『原理運動』」という記事が掲載されました。そこでは、統一教会によって「洗脳」された学生たちが原理運動に駆り立てられ、家出や学業放棄を行っている、と告発されました。親たちの不安も高まり、同年9月には「原理運動対策全国父母の会」が結成されています。また、森山氏を始め、牧師たちへの相談も増加し、強制改宗を行う牧師たちのネットワークが広がっていきました。

朝日新聞(1967年7月7日・夕刊)「親泣かせの「原理運動」」
朝日新聞(1967年7月7日・夕刊)「親泣かせの「原理運動」」

1970年代に入ると、統一教会をめぐる問題は、共産主義との対立という政治問題に発展しました。文鮮明氏が1968年に韓国で「国際勝共連合」を組織し、1970年代以降は、日本でも積極的な反共運動を展開していったからです。

1978年には、京都府の知事選において、国際勝共連合の働きにより、左翼系の知事が落選するという出来事が起こりました。これに脅威を覚えた日本共産党は、国際勝共連合との「聖なる戦い」を宣言し、大衆的・イデオロギー的結束を呼びかけます。それを受けて「原理運動を憂慮する会」が結成され、大学教授・ジャーナリスト・弁護士・牧師・国会議員など、広範な左翼勢力が反統一教会のために連携しました。

1970年代後半には、統一教会員に対する強制棄教が拡大し、治療という名目のもとで精神病院に監禁するという事例が多発しました。この動きは、1986年に統一教会信者が民事裁判で勝訴するまで続きました。

1980年代、日本は「バブル景気」と呼ばれる未曾有の好況を迎えました。この頃の統一教会は、日本を資金源としつつ世界的な布教を進める、という戦略を立てていたようです。そのため、開運を謳った高額な壺や印鑑を手広く販売する、という活動が展開されました。

これに対して反統一教会の陣営は、「霊感商法」を問題視するキャンペーンを展開し、テレビ・新聞・雑誌といった多くのメディアがこの動きに合流しました。1987年には、約300名の弁護士が連携し、「全国霊感商法対策弁護士連絡会」が結成されています。

統一教会問題が広く知られていくなかで、ディプログラミングの運動はこの時期にピークを迎えました。日本各地には、アパートや一軒家が改造された収容施設が次々に作られていきました。下に掲載した写真は、北海道に存在した「豊明住宅」というアパートです。6つの部屋のすべてが鉄格子付きの監禁施設に改造されています。ディプログラミングによって棄教させられた後、「洗脳の被害者」として統一教会に向けた裁判を起こす、という方式も確立していきました。

北海道に作られた収容施設「豊明住宅」
北海道に作られた収容施設「豊明住宅」

1990年前後、日本の反カルト運動は、統一教会に加え、オウム真理教問題に直面しました。とはいえオウムは、統一教会と比較すると遥かに暴力的な集団でした。彼らは89年、反対運動の先頭に立った坂本堤弁護士とその家族を殺害する、という事件を起こしています。後に述べるように、不思議なことにこの事件が解決されずに迷宮入りし、オウムは以降も暴走を続けました。そして95年に、地下鉄サリン事件を起こしたのです。

オウム事件を受け、日本社会では、カルトが行う洗脳やマインド・コントロールに対する恐怖が声高に叫ばれるようになりました。1993年にスティーブン・ハッサン氏の『マインド・コントロールの恐怖』が邦訳され、95年には社会心理学者の西田公昭氏の『マインド・コントロールとは何か』が公刊されています。こうして、心理学者・精神医学者・宗教学者たちも反カルト運動に加わるようになり、マインド・コントロールの理論化が進められました。95年には、その中心組織として「日本脱カルト協会」が結成されています。

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