BITTER WINTER

「カルト」が「洗脳」を行っているという理論は、世界的には信用を失っているが、日本では奇妙な成功を収めている。その事態について、日本人研究者が考察する。

大田俊寛

*2025年3月20日、パリのアジア東洋フランス研究所(IFRAE)が主催したシンポジウム「オウム事件が日本社会に遺したもの:地下鉄サリン事件から30年」における論考

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Rescue operations after Aum Shinrikyo’s 1995 sarin gas attack against the Tokyo subway. Credits.
1995年、オウム真理教による地下鉄サリン事件後の救出活動。Credits.

この発表では、オウム真理教の内外に蔓延した「マインド・コントロール幻想」について考察します。全体としては、以下の四つの部分から構成されます。

 (1)私の経歴・オウム研究の概要

 (2)MKウルトラとその影響

 (3)オウムにおけるマインド・コントロール幻想

 (4)反カルト運動におけるマインド・コントロール幻想

まず最初に、私自身のプロフィールと、オウム真理教研究の経緯について、簡単にお話ししましょう。

私は1974年に、福岡県で生まれました。ちょうど20歳になった頃に、1995年3月の地下鉄サリン事件が起こっています。当時の私は、東京郊外にある大学で宗教学を専攻し始めたところでした。都心ではいつテロが起こるか分からない状態となり、緊迫した空気が流れていたことを覚えています。

その頃、私が最初の研究対象に選んだのは、「グノーシス主義」でした。グノーシス主義は、2世紀頃に登場したキリスト教の異端思想です。実は私は、語学が大変に苦手なのですが、苦労してコプト語を勉強しつつナグ・ハマディ文書を読解し、2007年に博士号を取得しました。グノーシス主義についての研究は、2009年に『グノーシス主義の思想――〈父〉というフィクション』というタイトルで書籍化されています。

『グノーシス主義の思想――〈父〉というフィクション』(2009)
『グノーシス主義の思想――〈父〉というフィクション』(2009)

最初の研究を終えた後、第二のテーマとして選んだのが、オウム真理教でした。先に述べたように、オウム真理教は、私が20歳の頃に無差別テロを遂行した宗教団体であり、日本の宗教学者として無視することができなかったからです。

また私は、グノーシス主義の研究を通して、西洋の宗教やオカルティズムの歴史を一通り知るようになっており、そうした知識を用いながら、オウムについて思想史的に解明することができるのではないか、と考えました。こうして2011年に出版されたのが、『オウム真理教の精神史――ロマン主義・全体主義・原理主義』という書物です。

サブタイトルに示されているように、この書物では、オウムに対して、反近代主義の立場を取る三つの思想潮流に照らして考察しています。

まず第一にロマン主義は、近代の主流思想である啓蒙主義に対抗しようとする思想です。啓蒙主義が理性的な「光」を重視するのに対して、ロマン主義は情動的な「闇」を重視しました。そして人間は、闇の領域を探求することにより、真実の自己を発見することができる、と説かれたのです。同書では、ドイツ・ロマン主義に端を発し、アメリカのニューエイジを経て、日本にそうした「闇の思想」が流入した経緯について概観しました。

第二に取り上げたのは全体主義であり、その代表例に当たるのは、ナチズムの体制です。ナチズムにおいては、アドルフ・ヒトラーというカリスマ的な指導者への崇拝のほか、優秀人種と劣等人種の相克という二元論的な世界観、親衛隊やゲシュタポによる秘密警察的な支配、といった特色が見られました。麻原彰晃がヒトラーを崇拝していたこともあり、オウムの体制には、ナチズムと類似した点が数多く見受けられます。

第三に取り上げたのは、原理主義です。西洋では16世紀に宗教改革が起こり、その影響から近代以降は、多くのキリスト教徒が自ら聖書を読むようになりました。結果として彼らのなかから、聖書に記された終末論を文字通りに受け止め、それをもとに現代の事象を読み解こうとする人々が現れました。「キリスト教原理主義」と呼ばれる流れであり、オウムに見られた先鋭的な終末論は、こうした思想に由来すると考えることができます。

『オウム真理教の精神史――ロマン主義・全体主義・原理主義』(2011)
『オウム真理教の精神史――ロマン主義・全体主義・原理主義』(2011)

以上が『オウム真理教の精神史』の概要です。私はその二年後の2013年に、同書の補論として『現代オカルトの根源――霊性進化論の光と闇』という本も出版していますので、それについても簡単に触れておきましょう。

私は2012年、ある雑誌の企画で、オウムの上級幹部の一人であった上祐史浩(じょうゆう・ふみひろ)という人物と対談したことがあります。その際に上祐氏は、実はオウムの幹部のあいだでは、教団の最終目標について早期の段階で麻原から知らされており、それは「種の入れ替え」と呼ばれていた、と話してくれました。

「種の入れ替え」というのは、一般的にはあまり聞き慣れない言葉です。私もその場では意味が分からなかったのですが、改めて調べ直したところ、神智学で提唱された「霊性進化論」に由来する言葉であることが判明しました。それによれば、修行を積んで霊性を高めていく人間は、やがて神的な存在に進化していきます。ところが他方、物欲にまみれて堕落していく人間は、動物に落ちるというのです。その世界観を簡略的に図式化すると、下のようになります。

「霊性進化」に関する神智学の図式
「霊性進化」に関する神智学の図式

日本では神智学の歴史に関する一般向けの書物が存在しなかったため、私は『現代オカルトの根源』において、そのテーマを取り上げました。すなわち、神智学の創始者であるブラヴァツキー夫人に始まり、ルドルフ・シュタイナー、エドガー・ケイシーといった系譜を経て、霊性進化論の思想がオウムに流れ込んだことを論じたのです。そしてオウムの最終目標は、ハルマゲドンを引き起こして動物に落ちた人間たちを粛清し、霊的に進化した神々の王国を建設することにあった、ということを示しました。

『現代オカルトの根源――霊性進化論の光と闇』(2013)
『現代オカルトの根源――霊性進化論の光と闇』(2013)

以上のように、私は基本的に、思想史の観点から宗教について研究しており、オウムに対してもその方法を適用しました。今から振り返ってみても、この時期の私の研究は極めて正当なものであり、特に修正すべき点は見当たりません。私の著作は、一般読者からは概して好意的な評価を受け、オウムについて初めて腑に落ちる説明を受けた、という感想が寄せられることも少なくありませんでした。

とはいえそれは、一般読者からの反応であり、オウム問題の専門家、なかでも「反カルト」の立場を取っている人々からの反応は、まったく異なっていました。彼らは私の書物を黙殺するか、ときに不快感を漏らす、といった態度を見せていたのです。

その理由には、思い当たる点がありました。実は日本では長いあいだ、「カルト」に関しては、「洗脳」や「マインド・コントロール」といった理論で説明することが主流となっていたのです。下に示したのは、そうしたテーマを論じた数多くの書物の一部です。そのほかにも、テレビ・新聞・ラジオ・インターネットといったさまざまなメディアのなかで、「洗脳」や「マインド・コントロール」は、あたかも自明の事実であるかのように語られてきました。

「洗脳」や「マインド・コントロール」について論じた多くの書物
「洗脳」や「マインド・コントロール」について論じた多くの書物

ところが、それに対して私は『オウム真理教の精神史』のなかで、こうした概念をまったく用いず、むしろ批判的に言及しました。そのことが、「反カルト」の立場を取る人々にとっては受け入れがたかったものと思われます。

「洗脳」や「マインド・コントロール」とは、きわめて多様な仕方で語られてきた概念であり、厳密な定義が存在するわけではありません。ともあれ、取りあえず簡略的に規定すれば、まず洗脳とは「科学的な仕方で意識を消去すること」、そしてマインド・コントロールとは「科学的な仕方で意識を書き換え、他者を操作すること」を意味します。

果たしてこのような技術は、本当に存在するのでしょうか? もし洗脳やマインド・コントロールが科学的な仕方で可能になったとすれば、何よりも精神医学の分野で革命的な変化が生じているはずですが、そのような話は聞いたことがありません。21世紀前半の現在、洗脳やマインド・コントロールという技術は、どう考えても明確な仕方では存在していないのです。

現在の私は、洗脳やマインド・コントロールについて、科学的理論ではなく、厄介で危険な「幻想」であると捉えています。そしてその幻想は、オウムという教団の内部のみならず、日本社会の全体に蔓延し、複雑な相互作用をもたらしてきた、と考えられます。そこでこの論考では、こうした幻想の来歴から、日本のオウム事件に及ぼした影響に至るまでを、手短に論じてみることにしましょう。