医師である筆者は、両親およびディプログラマーによって拉致監禁された。背後には、いつものように反カルト派の弁護士がいた。
小出浩久(こいで・ひろひさ)
※本稿は、2025年6月16日にジュネーブの国連人権理事会第59会期のサイドイベント「60万人の信者を有する宗教共同体の根絶と解散:日本における統一教会の事例」で発表された証言である。
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私の名前は小出浩久です。現在、東京で医師として勤務しています。私は「世界平和統一家庭連合」(旧・統一教会)の信者であり、ディプログラミング(脱会強制)の生還者です。日本では、家庭連合の信者に対する拉致監禁は、金銭目的や反宗教的な活動家だけでなく、主流派のキリスト教牧師によっても支持されていました。
多くの親たちは、子どもが新しい宗教に入信したとき、その言動を理解できずに苦しみます。彼らはキリスト教会を訪れ、対応を相談しました。多くの教会は誠実で、平和的な雰囲気でしたが、信者の強制的な「救出」に関わった牧師たちは、左翼活動家の影響を受けて極端に過激化していました。そして一部の教会は、信者の拉致監禁という恐ろしい行為が推奨される場となってしまったのです。
キリスト教会の温かな雰囲気がなければ、親たちはこれほど簡単に監禁を受け入れることはなかったでしょう。
日本基督教団と日本同盟基督教団という二つの主要教派が、反家庭連合グループの基盤となっていました。
今から私自身の拉致監禁体験をお話ししたいと思います。私は医学生時代に家庭連合の信仰をもつようになり、1990年に東京の一心病院で勤務を始めました。そこは家庭連合信者の女性医師が創設した病院で、信者である医師たちが多く集まっていました。私はその病院で働けることに喜びを感じていました。

しかし、マスコミは家庭連合に対する多くの否定的な情報を全国に広めました。両親は、私の友人や医大の教師からこの情報を聞き、彼らを通して反家庭連合グループを紹介されました。そのリーダーは、プロのディプログラマーである宮村峻氏でした。
そのグループの集会は、新宿西教会で行われていました。その集会で両親は、監禁の準備の仕方や、親族への協力要請、さらには監禁中の精神状態の保ち方に至るまで教え込まれていたのです。
これに最も影響を受けたのが母でした。母は私を閉じ込め、信仰を棄てることを強制しました。母の影響により、父、兄、妹、その他の親族もこの監禁計画に加わりました。
1992年6月13日、実家を訪れた際、約15人の親族に囲まれ、車に押し込まれてアパートに連れて行かれました。建物の前には、家庭連合に敵意を抱く元信者約10人が待っていました。その部屋の窓には鉄格子がついて開けることはできず、外の景色も見えませんでした。
玄関のドアはチェーンで施錠され、男性が24時間座って見張っていました。部屋は5階以上の高さにあり、常時7人ほどの親族が私と一緒にいました。

私は、自分の担当する患者たちの心身に悪影響を及ぼすことが心配でした。何日も病院に連絡させてほしいと懇願しました。親や親族は、私が患者たちの情報を記録して、病院に送ることを認めましたが、この計画の真のリーダーである宮村氏は、私の願いを拒否しました。
その後、家族は私に家庭連合の教義と活動について説明を求めました。私は基本的な人権を無視した、この暴力的な宗教弾圧をやめるよう叫び続けました。
驚いたことに、宮村氏と親しい弁護士・平田寛(ひらた・ひろし)氏が部屋に現れ、「この状況は違法ではない」と皆に保証しました。親族たちはその言葉を信じ、私は強制的に旧約・新約聖書や家庭連合の教義を批判する本を読まされました。夜には、不満を抱いた元信者と宮村氏が私を「説得」するために部屋にやって来ました。

宮村氏は「信者の心を変えるには暴力が必要だ」と考えていました。私は父と兄から激しく殴られ、父の膝蹴りでできた目の周囲のアザは、一週間以上消えませんでした。
病院の同僚が私の居場所を突き止め、病院長が東京高裁に「人身保護請求」(違法な監禁からの解放)を申し立てました。東京高裁からは両親に出頭命令が出され、通知がアパートに届きましたが、宮村氏はそれを無視し、親族に私を別の場所に移動させるよう指示しました。
私たち全員は、深夜、東京から250キロ以上離れた新潟市へと移動しました。到着後すぐに、新津福音キリスト教会の松永堡智(まつなが・やすとも)牧師がやってきました。
彼は宮村氏と協力し、同じ手法を用いていました。信者を閉じ込め、聖書の言葉を使って混乱させ、信仰を諦めさせようとしました。ただし、二人の信条には大きな違いがありました。宮村氏にはキリスト教の信仰がなかったのに対し、松永氏はカルヴァン主義者でした。

こうして監禁と「説得」の日々が10か月以上続きました。その間、両親はほとんど部屋を離れることができず、さらに父は我々の状況を報告するため、毎晩のように宮村氏に電話をかけました。ディプログラマーからは「あなたの態度が悪いから、息子さんはその奇妙な宗教をやめられないのだ」と叱責されていました。
ある夜、父は私にこう言いました。「もしお前を解放したら、反家庭連合グループの活動が公になってしまい、彼らはもうやっていけなくなる。だから、お前を生きて帰すわけにはいかない。お前を殺して私も死ぬ。」そう叫びながら私の首を掴み、押し倒してきたのです。
私は父の精神状態が限界に達していると感じ、信仰を棄てたと嘘をつくしかありませんでした。父は若い頃、日本軍で訓練を受けており、常に「訓練を通して、自分は目的のためなら死ぬ覚悟がある」と語っていました。
父に殺されるかもしれないという恐怖から、反家庭連合の一員として振る舞うことを強制されました。そこからさらなる精神的苦痛が始まり、その苦しみは一年間続きました。
宮村氏の指示で、私は山中の別荘に移されました。そこで、ジャーナリスト・有田芳生(ありた・よしふ)氏と、週刊誌「週刊文春」の記者から取材を受けました。その記事は、家庭連合を批判するために利用されました。有田氏は現在、日本の国会議員です。

その後、私はTBSの番組「報道特集」にも出演を強いられました。私は部屋から新潟で最も大きな河川敷に連れて行かれ、テレビカメラで撮影されました。そこでは、父と複数の敵対的な元信者たちに取り囲まれていました。
撮影時には、ディプログラマーである宮村氏が主導的な立場にいるように見えました。私の発言が彼の意に沿わないと、彼はすぐに遮りました。そして彼は、「家庭連合は人間愛のない狂った集団だ」と言い放ちました。反家庭連合のメディアは、私の発言の一部だけを放送しました。
そこまで自分をさらけ出した後で、私は父の監視のもと、アパートを出て松永氏の教会まで歩いて通えるようになりました。教会には、私と同じように信仰を棄てることを強いられた人たちが約10人通っていました。
教会に通い始めてわずか一か月、私は両親に付き添われ、宮村氏とともに2人の弁護士、山口広氏と紀藤正樹氏に会わされました。彼らはテレビで家庭連合への激しい批判を繰り返してきた人物です。

私は、父と宮村氏の指示に従って話さなければなりませんでした。また、弁護士たちは私が自由な立場にないことを知っていました。紀藤氏はこう言いました。「そろそろ解放してもいいんじゃないかな。でも、宮村さんに聞かないといけないけど。」
私は基本的人権について話すこともできず、家庭連合と病院に対して訴訟を起こすという法的文書に署名を強制されました。
このような状況に置かれていたのは私だけではありませんでした。松永氏の教会では、監禁から解放されて間もない家庭連合信者たち全員が、こうした弁護士たちと面会するよう促されていたのです。
私は、弁護士たちのグループが、人々を政治的な目的のために利用しているのだと理解しました。これらの元信者たちは、親によって監禁されたことで深く傷つき、再び閉じ込められるかもしれないという恐怖をまだ抱えていました。だからこそ、彼らはこれらの弁護士を通じて訴訟を起こすしか選択がなかったのです。
私が訴訟を起こすとすぐに、さらにトラウマを伴う行動を強いられました。私は、信者が監禁されているアパートに行き、彼らと話すよう命じられました。私は今でも、罪のない信者たちの部屋を訪ねたことを後悔しています。彼らは苦しんでいました。
松永氏の教会では、毎週末、信者の親たちを対象にした相談会やセミナーが開かれていました。牧師や元信者たちは、「子どもを助ける唯一の方法は監禁しかない」と説得し、どのようにして信者を閉じ込めるか、その手順まで詳しく説明しました。特に、監禁は親や兄弟にしかできないのだと強調していました。私は監禁を勧める立場になり、そのグループの中心的な存在となっていました。まるで生ける屍(しかばね)のような気持ちでした。

私は、教会の近くにある病院で助手として働き始めました。人の役に立てることに喜びを感じました。2か月間その病院で働いた後、銀行口座にいくらかのお金が貯まり、私はそのグループを離れて東京へ逃れることができました。
両親がショックを受けることは分かっていました。その後2年間、私は自分の居場所を知らせることができませんでした。両親がまだ宮村氏のグループと関係をもっていて、再び私を監禁する可能性があると思ったからです。
父は宮村氏の助言に従い、2万ドルを借金して、新しい建物を建てるため松永氏の教会にそれを渡しました。
その後、私はこの2年間の体験を本に書き、反家庭連合活動の実態を公にしました。この本によって、私は自分の身を守ることができ、両親や兄弟と安全に連絡を取れるようになりました。
母はアルツハイマー病を患い、家庭連合に対する憎しみもすべて忘れていました。私はようやく、母が本来持っていた温かな愛情を感じられるようになりました。いっぽう父は、結局失敗に終わったディプログラミングに20万ドルも費やしたと語っていました。

Hirohisa Koide works as a medical doctor in Tokyo. A member of the Unification Church (now called Family Federation for World Peace and Unification), he survived a deprogramming attempt. He told his story in the book “Escape from Kidnappers” (Tokyo: Kogensya, 1996).



