元栃木県会議員が語った。何故統一教会に協力し、なぜ誹謗中傷されてきたのか。
増渕賢一
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私は1946年7月4日、栃木県宇都宮市にて生まれた。地元の小中学校を卒業後、玉川学園高等部を卒業し、父が経営していた増渕組に入社した。増渕組は県内で最も大きな建設会社であった。
20歳のとき、妻江美と結婚した。妻は2020年9月に亡くなった。
26歳のとき、父から政治家になることを勧められ1974年7月施行の栃木県議会議員補欠選挙に自由民主党(以下、「自民党」と言う)から立候補したが、あえなく落選した。
翌1975年、栃木県議会議員に立候補して当選し、以後、2011年まで9期県議を務めた。1991年には、45歳の若さで第80代栃木県議会議長に選出された。
2009年12月13日に開催された今上陛下御在位20年栃木県民祝賀式典では実行委員長を務めた。
兄弟は、弟増渕博史がいた。博史は弁護士をしていて栃木県弁護士会会長まで務めたが、2023年11月に亡くなった。
私は両親の影響で、政治家になった当初から保守の政治信条をもっていた。私にとって保守政治の根幹は、「愛国心」と「信仰心」だ。楠木正成は「非理法権天」を旗印とした。これは、天道に従って行動すべきという意味だ。天に対する畏敬の念がなければ、人は好き勝手に行動するようになり、正義が立たない。天道に従うことは、人々を幸福に導く政治にとって不可欠だ。日本は無宗教と言われるが、年中行事に宗教儀式が組み込まれるなど、実は知らずの内に人々の中に信仰心が根付いている。日本人が品行方正だと言われるのも、伝統的に引き継がれてきた信仰心によるところが大きいと思う。
私の家庭について言えば、父は、一代で事業を成功させた、所謂“立志伝中の人物”であった。しかし、一方で“敬神崇祖”の念が厚く、鎮守様の鳥居を寄贈し、菩提寺の本堂建設にも多大の寄付をした。本堂建設の委員長に推戴されたこともある。私自身も妻を亡くした際、菩提寺の住職様に、「最照院慧雅江美清浄大姉」という法号を賜り、金200,000円を布施した。これも信心からだ。
世の中には様々な宗教があるが、富士山に様々な登山路があるのと同じで、宗教、宗派は違っても目指す頂上は皆同じだと考える。従って、私は仏教以外の他宗教も尊重している。
私の保守政治の思想信条と、共産主義とは全く相容れない。そもそも、神を否定する共産主義は、何をやってもおかまいなしで、目的のためなら手段を選ばない。この結果、旧ソ連、中華人民共和国(以下、「中共」と言う)、カンボジアなどで何千万、何百万の人命が奪われたことか。また、共産主義思想は、労働者の一党独裁体制によってユートピアを実現できるという理論そのものが虚構である。労働者といえども、権力が集中すれば濫用するのであり、人権侵害に歯止めはきかない。
左翼はその行動にも嘘が多い。私の体験を挙げれば、宇都宮市内の中学校で、生徒が暴れて校長が警察を呼んだことがあった。学校で手に負えなければ警察を呼ぶことも必要だ。ところが、学校長が左傾化メディアから責め立てられ、答弁に苦慮した。見かねた私は、公の席で「マスコミ対応に慣れない学校長を矢面に立てるべきではない。教育委員会がマスコミ対応に当たるべきだ」と発言した。すると、朝日新聞は、「増渕は言論封鎖した」と騒ぎ立てた。共産党も、同旨のビラを配布して街頭演説を行った。彼らは常に本質をずらす。平気で嘘をつけるのが彼らの特徴だ。
私は1974年7月施行の栃木県議会議員補欠選挙で落選した後、知人から、保守系の政治団体として国際勝共連合を紹介された。冷戦時、共産圏が積極的な拡張政策をとり、日本や韓国もいつ共産化されるか分からない危険な状況があった。国際勝共連合は、こうした事態を憂慮し、世界平和統一家庭連合(以下、「家庭連合」と言う)の創設者文鮮明師が創設した政治団体だ。日本では1968年に創設された。
私も、共産主義の蔓延を憂慮していたため、国際勝共連合の関係者らが訪ねてきた際には、共産主義批判のデスカッションで盛り上がった。
1976年頃、国際勝共連合の栃木県大会が開催され、国際勝共連合の久保木修己会長が、「救国の叫び」と題する講演を行った。当時はロッキード事件の直後で政治不信が高まり、左翼全盛時代だった。こうした中、久保木会長の講演は保守の立場から共産主義の脅威を訴える希有なもので、私は大変感銘を受けた。保守政治家を自負していた私にとっては、百万の味方を得たも同然であり、政治哲学の指導者を得た思いがした。当時国際勝共連合を率いていた久保木氏らがどのような宗教団体に所属しているかは全く別次元の問題である。
1978年、京都府知事選が行われた。京都府では蜷川虎三の革新府政が28年間続いており、その打倒のため、国際勝共連合の若いメンバーが街頭演説など最前線で闘った。時には、共産党陣営から激しい妨害を受けたこともあったと言う。こうした命がけの闘いを経て、保守系の林田悠紀夫候補が当選した。これに対して、宮本顕治共産党委員長(当時)は激怒し、国際勝共連合・家庭連合の壊滅を指示したという(「赤旗」1978年6月8日付記事)。
その後も、国際勝共連合は、各自治体選挙で最前線の闘いを繰り広げた。美濃部亮吉都政(1967年~1979年)、黒田了一大阪府政(1971年~1979年)、畑和埼玉県政(1972年~1992年)が次々と消滅し、あれほど全盛を誇った革新自治体が減少したのであった。こうして1990年代は、保守全盛時代となった。国際勝共連合は、日本を左傾化から救ったのだ。一方、日本共産党及びそのシンパにとって国際勝共連合は“不倶戴天の敵”となった。
1980年頃、国際勝共連合は全国で支部組織をつくることになった。これは政治家を中心とした組織であった。栃木県でも栃木県総支部を立ち上げることとなり元参議院議員の矢野登先生が議長に就任し、私は幹事長を引き受けることになった。私は、彼らが日本のため命がけで戦っていたことを知っていたので快諾したのだ。